アドナイ・エレ

「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり) 創世記22章14節 この言葉は、アブラハムがその子イサクを神の言に従って、モリヤの山に行きささげようとした時に、み使いが現れてイサクの代わりに一頭の雄羊が備えられていることを告げられ、それを燔祭としてささげた所の名として付けられたものです。 65歳で突然天に召された敬愛してやまない故馬場哲雄兄が、この言葉にメロデーを付けられた賛美が「アドナイ・エレ」という曲です。「主にすべてささげて歩む、主にすべてをゆだねて歩む、そのときすべてが備えられる。アドナイ・エレ、アドナイ・エレ」という賛美です。 わたしは、いつもこの賛美を主にささげ、「アドナイ・エレ」の信仰をもって歩み続けていきたいと祈り願っています。

【11月2日 企救エクレシア設立記念礼拝メッセージ】
聖書:マタイによる福音書4章18~22節  

 設立記念おめでとうございます。企救エクレシアもそうですが、ひとつのものが建て上げられていくためには、それまでに多くの方々の血と汗と涙が流されてきたと思います。私達はその土台の上に立っていることを忘れてはならないと思います。
 
   本日はイエス様がこの地上において初めて宣教活動を開始された時のことを聖書から学び、ともに主に深い感謝をささげる時としたいと思います。

  当時のガリラヤは、経済的にはエジプトにつながる国際的な交易路としての「海の道」として繁栄していました。しかし、その生活はアッシリアに侵略され、偶像礼拝を強要され、周りから「異邦人のガリラヤ」と揶揄されるほど理不尽な生活を強いられていました。そのような地でイエス様は宣教活動を始められたのです。

  しかし、これはイエス様の個人的な思いや願いではなく、旧約聖書の預言が成就するためでした。このことをイザヤ書9章1~2節に次のように記されています。「しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地に、はずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、『異邦人のガリラヤ』に光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は、大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」と。まさにイザヤ書の預言が成就したことが分かります。

   イエス様は宣教を開始されるにあたり12人の弟子をお選びになりました。興味深いことに、そのほとんどがガリラヤ湖で漁をしていた漁師たちでした。彼らは決してエリートではなく、むしろ社会的には、さげすまされ疎まれていた人々でした。それは神の前に誰も誇ることがないためでした。

    彼らは3年間イエス様と行動をともにし、さまざまな教えを聞き数々の奇跡を見てきました。しかし、イエス様が十字架にかかられる時、イエス様を裏切って、すべての弟子がイエス様のもとから逃げ去って行きました。そんな弟子たちでしたが、その最期はイエス様の教えに従って殉教していきました。
   
    弟子たちはどのようにして変えられていったのでしょうか。ひとつは復活されたイエス様に直接出会ったことです。そしてもうひとつは、著しい聖霊の賜物を受け、聖霊の働きを体験したことにあったのではないでしょうか。

    私自身55年の信仰生活の中で、一冊の本になるほど大小さまざまな聖霊による体験をしてきました。新・旧約聖書を合わせると約2000頁に及ぶ聖書もいわば神様・イエス様の教えに従い、それを体験してきた体験談集ともいえると思います。信仰は観念ではなく聖書の御言葉に基づく実体験といえるのではないでしょうか。
   
    ユダに代わって選ばれたマッティアを含めた「ガリラヤの12人」は、さまざまな聖霊による体験をへて、その信仰が強められ深められ、そして最期はイエス様の教えに従って殉教していきました。

    こんにち私達の信仰生活に足りないものは何でしょうか。それは信仰に基づく聖霊による体験ではないでしょうか。主は今も私達とともに働いてくださっていることを実体験することではないでしょうか。

    今こうして私達が罪から救われ、ともにイエス様を賛美し教会に連なることができるのは、今から約2000年前に遠くイスラエルのガリラヤの地で宣教活動を始められたイエス様と「ガリラヤの12人」に代表される弟子たちの血と汗と涙があったからです。

    本日、設立記念を迎えられた企救エクレシアの歩みが、イエス様とともにあって皆さんの手で力強く教会を建て上げられ、ますます主の豊かな祝福を受けられますよう祈り願っています。   
              












聖書:マタイによる福音書7章7~12節 創世記32章26節

  この場所とそれにまつわる記事は創世記32章と33章に詳しく書かれています。イサクの子であるエサウとヤコブに関する記事です。そこには兄エサウを弟のヤコブが策略をめぐらして長子の権を兄から奪い取り、ヤコブが20年ぶりにその兄が住む故郷のカナンに戻る途中で起きた出来事が書かれています。

 ヤコブが故郷に戻るためにはヨルダン川の支流であるヤボク川の渡しを渡らなければなりませんでした。しかし兄エサウを騙したこともあって、ヤコブは兄に対する恐怖の思いでいっぱいになり、ひとりヤボクの渡しに残りました。

 するとそこに神の使いが現れ、何とふたりは格闘を始め、それは夜明けまで続いたと書かれています。なかなかヤコブが格闘をやめないので、神の使いはヤコブのもものつがいをはずして力が出ないようにして、そこを立ち去ろうとしました。

 しかしヤコブは神の使いに対して、「私を祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と言って、神の使いにしがみついて離しませんでした。私達の信仰生活においても、「イエス様、この私の苦しみ、悩み、思い煩いから私を解放してくださらないなら、あなたを離しません」とイエス様にしがみついて祈る時があるのではないでしょうか。

 神の祝福を得たヤコブは兄に対する恐れから解放され、しっかりと兄エサウと向き合いました。すると20年ぶりにヤコブと再会したエサウは自らヤコブのもとに足り寄ってきて、弟を抱きかかえて口づけしともに泣いたと記されています。何と感動的な光景ではないでしょうか。ここにこそ、人知をはるかに超えた神様の祝福があるのです。

 ヤボクの渡しでヤコブに起ったことは、私達にも必ず起きます。どんな試練に会ったとしても、求め続け、捜し続け、たたき続ければ、必ず神様・イエス様がそれにお応えくださり、それらの試練を乗り越えさせ、私達を祝福の道へと導いてくださるのです。




題:「天国への道」

聖書:ヨハネによる福音書14章1~6節

 本日は、企救エクレシアの召天者記念礼拝にお招きいただきありがとうございます。この貴重なひと時を皆さんと聖書が伝える永遠不変の教えと喜びと祝福に満ちたメッセージをともに受け取り分かち合うことができたら感謝です。

私は今年で75歳になりますが、昨年何人かの身近な方々を天に送ったことを通して、私も少しずつ天が近づいてきたことを実感しました。しかし、それは決して悲しく悲痛なことではなく、またそれらの方々と天のみ国で再会できるという希望であり、御言葉に対する深い信頼でもありました。

神様は私達を悲しみに遭わせるために天地を創り、私達をこの地に誕生させ、今このようにして私達を生かしておられるのではありません。神様は私達に聖書を通して次のように語っておられます。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)、「主は言われる。わたしがあなたがたに対していだいている計画は、わたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(エレミヤ29:11)と。神様は、私達を愛し希望と平安に満ちた人生を与えてくださることを約束されているのです。

聖書が私達に伝える一貫したメッセージは何でしょうか?それは「神は愛である」(Ⅰヨハネ4:8)ということです。神様は私達を愛してやまないお方だということです。そして、その表れとして大切なひとり子であるイエス・キリストをこの世に送ってくださいました。そこには2つの目的がありました。ひとつはイエス様を十字架にかけることによって、私達の罪をゆるし父なる神様と和解させることです。もうひとつは、本日のメッセージのテーマであります「天国への道」を開き、そこに確実に私達を迎え入れることです。

ヨハネによる福音書ではイエス様のことを「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はいない」(ヨハネ3:13)、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それはみ子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と記しています。私達のことを愛してやまない父なる神様の願いは、私達がひとりも滅びないで永遠の命(天国)に入ることです。そのためにその大切なひとり子であるイエス様を天から送ってくださったのです。

イエス様は本日の聖書の箇所で心を騒がせている弟子達に向かって、次のように言われました。「私の父の家にはすまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおるところにあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ14:2・3)と。

ここでイエス様は、天国のことをより具体的に示すために、すまいを用意しに行くと言われました。このすまいとは英語訳聖書では「マンション」となっており、天では最上のすまいが用意されているということを意味しており、「またきて」とは「復活」を意味しています。先ほど「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない」と記されていましたようにイエス様だけが天と地を行き来できる(できた)お方なのです。なぜなら、この世で唯一イエス様だけが神の子であり人の子だからです。

続けてイエス様は「主よ、どこへおいでなるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」(14:5)と質問してきた弟子達に対して「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことができない」(14:6)とお答えになりました。

ここでイエス様は「自分自身が道であり、真理であり、命であり、わたしを通してでなければ父のみもと(天国)に行くことはできない」とはっきりとおっしゃったのです。これまで「道」について語ったり、「道」について書かれた書物は数多くありましたが、自分自身が「道」であると言われたのは、イエス様おひとりだけです。「天国への道」は、神様のひとり子であるイエス様によってだけ開かれ、導かれ、達成される(達成された)のです。

本日は召天者記念礼拝です。この講壇の前に置かれていますお写真のおひとりおひとりが、「わたしは道である」と言われたイエス様を信じて「天国への道」を通って、天のすまいに入れられました。あとに続く私達もイエス様を信じ「天国への道」を歩み続けてまいりましょう。

*説教動画も合わせてご覧いただければ幸いです。

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