「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」

(コリント人への第2の手紙4章16節)

 

 昨年に続きコロナ禍の中での新しい年が始まりました。様々な場面での苦しい状況は変わりません。いつまでこのような状態が続くのだろうかと不安な気持ちで生活されている方も多いと思います。私の身近な知人の中にも正月休みもなく、3日から就職のための面接を受けられました。コロナがなければとっくに定職に就かれていたことでしょう。それほど世の中の状況は厳しいのです。

 

 朝の祈りの際に用いている本(榎本保郎著:「旧約聖書一日一章」)の中に、次のようなことが書かれていました。「私たちイエス・キリストの十字架の救いにあずかる者として、そのイエス・キリストの十字架が『わがためなり』となっていくためには、日々悔い改めて神の前に新たな存在となることが大事であるということなのである」と。

 

 この文章を読んで深く問われたことは、私自身が神の前に日々新たな存在となっているかということでした。2年前にこのようなコロナ禍の状況になることを誰も予想しなかったと思います。私たちの日常は、私たちの計画や思いを遥かに超えて日々刻々と移り変わっています。

 

 前述しました知人の方は、2年間コロナ禍の中にすっぽりとはまってしまわれ、いまだに苦しい状態が続いています。その方とはこの2年間、ほぼ毎週欠かすことなくお会いして、この状態からの解決のためにお話をし、ともに御言葉をいただき祈り続けています。

 

 このことを通して問われていますのは、私自身の信仰のあり方です。一喜一憂する状況が続く中、そのことに大きく揺り動かされている自分の姿を見出します。そのたびに信仰者として、あなたは何を信じて歩んできたのか。あなたの50年に及ぶ信仰のあり方はどうなのかと問われます。これまでの信仰生活の中で、いろいろな問題と直面してきました。確かに主はその都度万事を益に変えてくださいました。

 

 このことを深く知らされていながらも信仰者としての私の実体は、上記に記しましたように、その時々の状況に一喜一憂するような弱くてもろい存在です。時として、そのような自分の姿に嘆くことさえあります。しかしながら、このようなどうしようもない不信仰な者だからこそ、イエス・キリストの十字架の救いにあずからなければならない存在であることもまた知らされるのです。

 

 イエス・キリストの十字架が「わがためなり」となっていくためには、神の前に日々私自身の不信仰を悔い改め、新たな存在となっていかねばならないことを覚えさせられます。眼に見える日々の状況は刻々と変わっていきます。明日のことを確実に予測できる人など誰ひとりとしていないと思います。

 

 私たちがなすべきことは、自分が今どこに立って歩んでいるかという足元をしっかりと見据え、明日への道を備え開いてくださっていますイエス様に希望を置いて、この100年に一度と言われる困難な状況を乗り越えて行くことしかないのではないかということを年の初めに改めて深く知らされました。

 

「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」                                            (コリントへの第2の手紙4:16・17)

 

上記の御言葉は、この困難な時代を生きる私たちを勇気づけ、希望と恵みに満ちた歩みへと導いてくださる力だと信じています。