「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」

(ローマ人への手紙5章:3~5節)

 

第2回目の東京オリンピックの開催が来週に迫ってきました。1回目は私が中学生の時でした。郷里の熊本で、日本選手が出場する種目の時は通常の授業を振り替えて全員体育館に集められ、テレビを観ながら夢中で応援しました。日本選手の活躍に大きな感動を受け、その当時、陸上競技に励んでいましたので、将来、オリンピック選手になることを夢見ていたことが、今は懐かしく思い起こされます。

 

先日、NHKのプロフェッショナル(仕事の流儀)で、今回のオリンピックに臨む5選手のことが放映されていました。陸上のY選手、体操のU選手、卓球女子のI選手、車いすテニスのK選手、水泳のH選手、いずれも日本を代表するアスリート達です。番組を観終わって、ひさびさにすがすがしい気持ちになりました。これこそがまさにスポーツマンシップの神髄だと思わされました。

 

5選手のいずれもが、大きな怪我や今まで経験したことがなかったような精神的なスランプに陥り大きな壁にぶつかります。ある選手は自分が今まで取り組んできた競技が大嫌いになり、競技を辞めようと思うまでに追い込まれます。しかし彼らは、そのような自分と真摯に向き合い、必ず壁を乗り越えることができるという希望を持って、怪我を治すためのリハビリに励み、休むことなくトレーニングを地道に続けていきます。ある選手はこの期間、一日たりとも気を抜かず自分に妥協せずトレーニングを続けてきましたと話していました。

 

その結果この5選手は、見事にそれぞれの壁を乗り越え、オリンピック出場という栄誉を勝ち取り、来週からのオリンピックに臨みます。彼らをそこまでに動かしてきた原動力は何だったのかと考えてみた時、そこには彼らが真摯に今ある自分と向き合い、苦難の先には必ず希望が見えてくることを信じて、地道にトレーニングに励む姿が見えてきます。トップアスリートであっても、弱く脆い自分と真摯に向き合う。ここにスポーツマンシップの原点があるように思いました。

 

 上記の御言葉を記したパウロは、聖書の中でよく競技者の譬を用いています。パウロもひとりの競技者であったのではないかと思わされるほどです。「しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする」(Ⅰコリント9:25)と記していますように、パウロは信仰者のあり方もまた競技者のあり方と合い通じるものがあることを語っています。

 

イエス様が「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と語られていますように、信仰者の歩みも競技者と同様に決して平坦なものではなく、この世では多くの悩み(患難・苦難)を抱えながら生きています。

 

 このような状況に置かれている私たちがいかにこの苦難に立ち向かい、これを乗り越えていくことができるでしょうか。上記の御言葉に「なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」(5:5)とパウロが記していますように、私たち信仰者の原動力は、神の愛がいつも私たちに注がれていることを深く知ることから始まるのではないでしょうか。

 

 キリスト者の最大の喜びは、私のような罪人にいつも神様の愛が注がれていることを知ることです。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」(Ⅰヨハネ3:16)とありますように、私たちはイエス様の十字架によって、そのことを深く知らされるのです。

 

 キリスト者の希望、それはイエス様の十字架によって与えられた「罪の赦し」と「永遠のいのちに入る約束」です。だから、私たちはどんな患難の中にあっても、それを喜び、忍耐し主の訓練を軽んじることなく、主の約束は必ず成就されるという希望を持って生きることができるのではないでしょうか。

 

イエス様とともにあるなら「希望は失望に終わることはない」(5:5)という御言葉は、何と大きな励ましの言葉ではないでしょうか。いつどんな時も、神様の愛が私たちの心に注がれていることを知って、主にある希望を持って歩んで行きましょう。