「わたしは、すでに自分を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」          (テモテの第二の手紙3章6・7節)

 

「『走るべき行程を立派に走り抜き』キラキラ光る細い目と、頑健な浅黒く逞しい肉体、やさしく柔軟なたたずまいを、そして何よりも、小さなことに大きな愛を注いだ地上での誠実で美しい歩みでした」この文章は、故馬場哲雄兄弟の説教集「喜びが満ちあふれるために」(いのちのことば社)の出版に際して、「畏友 馬場哲雄くんのこと」と題して寄せられた、浪岡教会(青森県)牧師の石川敞一先生からのお言葉です。

 

 石川先生と馬場兄弟の関係は、上記のテモテへの手紙を書いたパウロとテモテのように信仰の先輩・後輩でありながら、また親しい友のようでもありました。それは、傍から見ていても麗しく、また羨ましくさえ思えたほどでした。先生は、神学校を出られてすぐに郷里の青森に帰られ、実家を開放して開拓伝道を始められましたので、東京での交わりは長くはなかったのですが、その後、個人的なことで大変お世話になり、今も親しくさせていただいています。

 

 先生のお人柄は、実にざっくばらんで親しみやすく、どんな人でも優しく包んでくださる包容力に満ちた方です。先生と一度お会いしたことがある方なら、誰もが私と同じ思いを持たれると思います。先生は、そのような親しみやすさの中に、御言葉の前には決して妥協を許さないという確固とした信仰を持っておられます。そして、その原動力が日々の祈りにあることを知らされています。

 

深沢教会の良き伝統となった早天祈祷会は、石川先生と馬場兄弟のお二人で始められました。お二人は、雨の日も風の日もどんなことがあっても早天祈祷会を守り続けてこられました。私はお二人のそのような姿から、御言葉と祈りの大切さを体に沁み込むほど深く教えられました。このことは、その後の私自身の信仰生活の大きな宝になりました。御言葉と祈りは信仰生活の生命線であり、お二人の共通したお人柄の原点もそこにあることを深く知らされています。

 

石川先生は、夜間の神学校に通いながら、昼間は障害者福祉施設で働いておられました。当時、学生であった私は、何度かその施設にお手伝いに行ったことがあります。ある日、先生から今度連休を利用して、施設の子が自分のアパートに泊まりに来るので手伝ってくれないかと頼まれたことがありました。「どんなお手伝いをすればいいですか」と尋ねたところ、「一緒に話をしたり、近くの公園に行って散歩をしたり、床ずれを防ぐために夜中に3時間おきに起きて寝返りを打たせて欲しい」ということでした。その方は、私と同じ位の年齢で幼少期に筋ジストロフィーを患い、ずっと車椅子の生活をされていました。夜中に3時間おきに起きて寝返りを打たせることには緊張感を覚えましたが、そのような方と寝食を共にすることは初めてでしたので、大変貴重な経験になりました。

 

寝食を共にする中、お互いの緊張もほぐれ、リラックスして話せるようになりましたので、「もし体が自由に動かせるようになったとしたら、何をしてみたいですか?」とその方に尋ねてみました。すると「今までテレビでしか観たことがないので、一度でいいから自分の足で旅行をして、実際に自分の眼でいろいろなところを観てみたい」という答えが返ってきました。私たちにとっては、いつでも実現できることであり、特別なことではないことも、その方にとっては一生涯の夢なのです。

 

この時の体験は、深く私の脳裏に焼きつきました。それは、このことを通して、どんな小さなことも決して当たり前にしてはいけないこと。当たり前のことが当たり前に出来ない人が、世の中にはたくさんおられることを知らされたからです。先生が手伝って欲しいと言われたのは、手が足りなくて大変だというのではなく、そのような方と寝食を共にすることを通して、何かを学んで欲しいという願いがあったことを後で知らされました。

 

先生は郷里に帰られてからも牧師職と共に多くの施設を援助され、また「あおもりいのちの電話」を設立され、長年にわたって理事長を務められ、人生において悩み苦しむ方々の心の友となって、75歳になられた今もお元気に活躍されています。

 

 今から50年ほど前の冬の寒い日の朝、当時30坪にも満たなかった深沢教会の小さな礼拝堂の片隅に設置されたストーブの前で、石川神学生と馬場兄弟が教会員一人一人の名前を挙げて、大きな声で祈っておられた姿が眼に浮かんできます。年若い時に、このような真摯で誠実な信仰に生きておられた先輩方と出会えたことに、改めて心からの感謝の思いが湧いてきました。