「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。」

(ガラテヤ人への手紙3章3~4節)

 

以前にも書きましたが、私は毎朝、家内とともにデボーション(御言葉と祈りの時)を持っています。そこで繰り返し読んでいますのが、榎本保郎先生が著された「旧約聖書1日1章」です。この書物は内容的にも素晴らしく、私の霊的な養いにとって、なくてはならないものになっています。それはこの書物の中に、命がけで御言葉とともに生きてこられた榎本先生の生きざまといのちが満ち溢れているからです。

 

 現在、サムエル記(上)の御言葉をいただいていますが、その中で榎本先生が、登場人物であるダビデに関して、次のような興味深い文章を書かれています。内容を要約しますと「かつてダビデが少年であった頃、巨人ゴリアテと戦うために出ていく時、『わたしは万軍の主の名、すなわちイスラエルの神の名によって戦う』と言って出て行き、見事にゴリアテを倒した。しかし、サウル王からいのちを狙われ、追いつめられた時、何の武器も持っていなかったため、祭司アヒメレクに何か武器になる物はないかと尋ねた際、かつて自分が倒した『ゴリアテのつるぎ』があることを知らされ、『それにまさるものはありません。それをわたしにください』と申し出た。巨人ゴリアテを恐れず立ち向かっていったのもダビデ、サウル王を恐れて、かつて自分が倒した『ゴリアテのつるぎ』に頼ったのもダビデ、それと同様に私たちも常に二人の私を持っている。信仰者として神に頼る私とこの世を恐れて物に頼る私である。信仰とは神よりもこの世に頼ろうとする私との戦いである」と書かれています。

 

 この文章を読んだ時、まさに私自身の信仰の歩みそのものであることを知らされました。それは自分の中にも、少年ダビデのように、ただ信仰によってさまざまな問題に対処してきた自分とこの世を恐れこの世の常識や知恵や知識に頼ってきた自分の両方があるからです。榎本先生が自らの体験を踏まえ、「信仰とは、神よりもこの世に頼ろうとする私との戦いである」と書いておられますように、いつも問われるのは、私自身の信仰の姿勢にあることを知らされます。

 

 上記の御言葉でパウロがガラテヤ人に対して「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか」と記していますように、厳しくその信仰の姿勢を問いただしています。この手紙の全文を読むとパウロの厳しい叱責の声が、手紙の中から聞こえてくるようです。しかし、それはガラテヤ人や私たちに対するだけのものではありませんでした。この手紙の最後の方でパウロが「わたしもこの世に対して死んでしまったのである」(6:14)と記していますように、この世との戦いは、パウロ自身の戦いでもありました。

 

 この世の力の象徴である「ゴリアテのつるぎ」は、私たちにとって、時として魅力ある物のように見えます。しかし、少年ダビデが神に対する信仰によって、ゴリアテを倒したように、神の前には無力です。イエス様が「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と力強く宣言されたように、この世に惑わされ、揺り動かされ、飲み込まれそうになる私たちであっても、すでにこの世に勝利されているイエス様の助けと支えと導きによって、固く信仰に立っていくことが出来るのです。

 

 はかなく空しい「ゴリアテのつるぎ」に頼るのではなく、どんな苦しい時もいつも私たちとともにいてくださるイエス様に頼って、この厳しい現実の中をともに力強く生き抜いていくことが出来るよう心から祈り願っています。