「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」(新改訳:ローマ5章3~5節)

 

私は、聖書を調べる時、いつも3種類の聖書を読むことにしています。それは、口語訳聖書と新改訳聖書と新共同訳聖書です。いずれも教会で正式に用いられている聖書ですが、これらを読み比べてみますと訳に若干の違いがあり、大変参考になっています。

 

上記の聖書の箇所もそのひとつです。口語訳、新共同訳のいずれも、この箇所は「忍耐は錬達を生み出し」と訳されていますが、新改訳では、「錬達」ではなく「練られた品性」と訳されています。

 

私たちの人生にとって、患難や苦難は出来れば避けて通りたい事柄です。痛みや苦しみを負うことを願う人など誰ひとりいないと思います。しかし、イエス様が「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(口語訳:ヨハネ16:33)と言われていますように、私たちがこの世で生きていく中にあって、患難や苦難は避けて通れないものだということです。順風満帆な人生など何処にもないのではないでしょうか。傍から見れば何の問題もないように見える人であっても、一歩内に入ってみると、さまざまな問題を抱えて生きているのが私たちの実情です。

 

大切なことは、このような事柄から逃げないこと、諦めないこと、投げ出さないことです。上記の御言葉に記されていますように、忍耐に忍耐を重ねていくことが大切なのではないでしょうか。そこを越えていく時にもたらされるものが、「練られた品性」だと書かれています。私は、この御言葉に出会った時、何と的確な訳だろうと深い感動を覚えました。英語の聖書では、この箇所を「Character(キャラクター)」と書かれていますように、患難や苦難を経て、私たちの人格や品性は、練られたものとして形成されていくということです。

 

私自身もこれまでの人生の中で、さまざまな患難や試練に遭ってきました。あまりの苦しさから何度も必死で主に祈ったこともありました。教会の問題、職場の問題、家庭の問題など、これらの問題に遭うたびに逃げ出したくなったり、投げ出したくなったりする思いになったことがありました。しかし、そのたびに知らされてきたのは、忍耐して待つことの大切さでした。主に希望をもって忍耐して待つことによって、必ず終わりがあること、解決があることを知らされてきました。「希望は失望に終わることがない」と御言葉に約束されていますように、これまでの人生の中で、主にある希望が失望に終わったことはありませんでした。

 

御言葉に「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」(新改訳:Ⅰペテロ5:5)と記されていますように、私たちは自分でも知らないうちに、いつの間にか自分のことを自己正当化したり、自己正義化して高慢になってしまいます。「みな互いに謙遜を身に着けなさい」と記されていますように、患難や試練によってもたらされる「練られた品性」とは、謙遜になることを教えているのではないでしょうか。

 

「キリストは、・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(新共同訳:フィリピの信徒への手紙2:8)と記されていますように、イエス様の生涯は、まさに謙遜の極致のような歩みでした。

 

いつも主の前に自分の高慢さを砕かれて、このようなイエス様の歩みに倣い従う者でありたいと祈り願っています。