「サムエルは言った、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』」

(サムエル記上3章10節)

 

私が勤務した学校では、卒業時に毎年生徒達の手で「礎」(いしずえ)という記念誌を作っていました。その中で毎回「3年間の高校生活の中で、一番思い出に残っている場所はどこですか?」というアンケートをとっていました。そこには、それぞれに思い出に残った場所が書かれていました。皆と過ごした教室、ともに汗を流した体育館やグラウンド、食堂、図書室等、変わったところでは、玄関の下駄箱の前(?)、階段下の謎のスペース(?)など、いろいろな思い出の場所が書かれていました。退職する前に、私も生徒達のように34年間の中で、一番思い出に残っている場所はどこだろうと考えてみました。

 

 すぐに、私の頭の中に浮かんできたのはグラウンドでした。ホームグラウンドといわれるように、そこは体育の教師である私にとって、ホームのようなところで、体育の授業やクラブ活動、運動会や合宿等で、たくさんの汗を流した思い出の場所でした。そして、そこは、また私の信仰が養われた場所でもありました。前回のブログの中に書きましたように、私が勤務した学校は、小高い山の中にあって自然に恵まれ、グラウンドも周りが木々に囲まれ、梅やスモモの実が実る緑豊かなところでした。

 

 「神の家」と題して6回にわたって、ブログの中で新会堂建設について書きましたが、今から40年ほど前に、旧会堂建設と隣接地の購入を行った際も、教会債を発行して建設資金を募りました。この時もかなりの額の建設資金が必要でしたので、執事会(役員会)で話し合い、各執事が率先して、教会債を募ることになりました。私もいろいろな方に頼んでみたのですが、なかなか思うようには進まず、まったく行き詰まっていました。

 

そのような状態に置かれていたある日のこと、クラブ活動の指導を終えて、自分自身のトレーニングのために、ひとりグラウンドを黙々と走り、疲れたので、走り高跳び用のマットの上に横になりました。すると、どこからともなく、はっきりと私に語りかける声が聞こえてきました。私はびっくりして、その声に耳を傾けました。その声は、私にこう告げました。「私は、あなたにあなたが目標としている金額(具体的な金額を示して)を与えます」と。不思議に思って、あたりを見回しましたが、そこには誰もおらず、ただ夕闇が迫ってきているだけでした。

 

その声を耳に残したまま、次の日もいつものように職場に出かけました。体育研究室で体育着に着替え、用事を済ませるために校務センター(職員室)に向かいました。その途中の廊下で、校務センターから講堂に向かわれる校長先生に、バッタリとお会いしました。以前、校長先生には教会債のことを話し、協力していただけないかということをお願いしてありましたので、そのことを尋ねてみました。すると、すぐに「申し訳ないけど、この間、定期預金を組んでしまったので・・・」という返事が返ってきました。私の中には「ああ、やっぱり駄目だったのか」と落胆した思いが湧いてきました。ところが、その言葉に続けて、「そのような事情なので、○○口でいいかしら」という思いがけない言葉が返ってきたのです。

 

 その金額は、昨日私がグラウンドで聞いた金額とまったく同じでした。校長先生と別れた後、私はすぐに誰もいない教員用のトイレに入って、小躍りして喜び、心から主に感謝しました。その喜びは、金額が与えられた喜びだけではなく、主が祈りに応えてくださったことを体験できた喜びでした。この体験は、その後の私の信仰の歩みにおいて、大きな力となりました。主は、どんな時も私とともにいてくださり、祈りに応えてくださるお方であるという確信が与えられる出来事となりました。

 

 後で知らされたことですが、あの時、会堂建設のために協力してくださった校長先生は、実はクリスチャンであったこと、そして、ある教会の牧師先生の息子さんとご結婚され、結婚生活一年で旦那様は戦死され、その後、ずっと旦那様の姓を名乗られていたことを知りました。先生は、教会からしばらく離れておられましたが、退職後はご自身の母教会に戻られ、多くの方々に愛され慕われ、惜しまれて天に召されました。私に働いてくださった主の御業は、恩師である校長先生にも、同じように働いてくださり、その信仰が回復されて、天に召されたのです。主がなされる御業の何と奥深いことかを、改めて知らされたことでした。

 

 今も毎年、先生と親交が深かった職場の方々と、校長先生ご夫妻が埋葬されています墓を訪れ、墓前礼拝をささげています。「国籍は天にあり」とひときわ大きく墓碑に刻まれた文字が、先生の信仰を表しているようで、主が遣わしてくださった職場で、このような素晴らしい恩師と出会えたことは、何という大きな恵みであり、祝福であったかを知らされます。