アドナイ・エレ

「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり) 創世記22章14節 この言葉は、アブラハムがその子イサクを神の言に従って、モリヤの山に行きささげようとした時に、み使いが現れてイサクの代わりに一頭の雄羊が備えられていることを告げられ、それを燔祭としてささげた所の名として付けられたものです。 65歳で突然天に召された敬愛してやまない故馬場哲雄兄が、この言葉にメロデーを付けられた賛美が「アドナイ・エレ」という曲です。「主にすべてささげて歩む、主にすべてをゆだねて歩む、そのときすべてが備えられる。アドナイ・エレ、アドナイ・エレ」という賛美です。 わたしは、いつもこの賛美を主にささげ、「アドナイ・エレ」の信仰をもって歩み続けていきたいと祈り願っています。

2021年11月

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」

 (新改訳:マタイの福音書11章28節)

「神に愛されている人よ、恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ」

 (新改訳:ダニエル書10章19節)

 

上記のふたつの御言葉は、私が家で使っています「日めくりカレンダー」に記されている御言葉です。2年に亘るコロナ禍の中で、さまざまな問題に直面し、心身ともに深い疲れを覚える中、このふたつの御言葉には、本当に癒され励まされます。

 

このマタイの福音書の箇所を読みますと、いつも星野富弘さんのことが思い浮かびます。体育教師であった星野さんは、クラブ活動の指導中に誤って頭からマットに落ち手足の自由を失い、失意のどん底でこの御言葉と出会います。

 

そのことを「愛、深き淵より」という著書の中で、星野さんは次にように書いておられます。「私は自分がどこに向かっていくのか、なにに向かっていけばよいのかわからなかった。・・そんな私の耳もとに時々、風のようにささやいていく言葉があった。『労する者、重荷を負う者、我に来たれ』それは郷里の家の裏の墓地に立っていた白い十字架に書かれてあった言葉だった。

 

 不思議なほど覚えていたその言葉を、おそるおそる開いた聖書の中にみつけたとき、私がまだ健康でなにも知らないで飛び回っていた頃からすでに、私にこの言葉を与えてくれていた、神様のこころを知ったような気がした。『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。・・』この神の言葉にしたがってみたいと思った。クリスチャンといえる資格は何も持っていない私だけれど、『来い』というこの人の近くにいきたいと思った」と書かれていました。

 

星野さんはその失意のどん底で、この御言葉と出会いそれからの人生をこの御言葉に従っていく決心をされたのです。そこから星野さんの歩みは大きく変えられていきました。神様はまず突然の事故で失意のどん底にあった星野さんの疲れきった心を癒してくださり、生きる希望を与えてくださいました。

 

そして神様は、星野さんに口で筆をくわえて詩と絵を描く賜物を与えてくださり、多くの人々に生きる勇気と希望を与える神の器として、今も星野さんを用い続けてくださっています。このことを通して神様はどんなに苦しいと思える時も、私たちを見守り助けてくださるお方であることを私たちに示してくださっているのではないでしょうか。

 

次のダニエル書の御言葉からは、どんな時も私たちを励まして続けてくださっている神様からのメッセージを受け取ることが出来ます。ダニエルという人物のことを聞いて、まず思い浮かぶのが、王の家来たちの陰謀によって、獅子の穴の中に落とし入れられたにもかかわらず、その信仰によって無傷で生還したことです。この事実を知った当時のダリヨス王からダニエルは一層の信頼を受け、神の器として力強い働きをしていきます。

 

知恵と力に優れていたダニエルの素晴らしさは、決してそのことを誇るのではなく、神様の前にいつも徹底して謙遜に歩み続けたことでした。神様もそのようなダニエルを深く愛され、多くの試練から彼を守られ、神様の大切な器として尊く用いられました。

 

上記の御言葉は、ダニエルが70年間に亘って神に仕えて得た信仰告白です。「神に愛されている人よ、恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ」とは、何と励ましに満ちた言葉ではないでしょうか。眼の前にどんな苦難や患難があったとしても、「神様はあなたを愛しておられ、あなたを守ってくださっているので、安心しなさい、そして、強くありなさい」と私たちひとりひとりを励ましてくださっているのです。

 

100年に一度と言われるコロナ禍の中で、私たちの日々の生活は困難な状況に置かれています。ともすると私たちは、そこからもたらされるストレスやプレッシャーに押しつぶされそうになります。上記の御言葉は、そのような私たちを癒し励ましてくれる御言葉ではないでしょうか。このふたつの御言葉をしっかりと手に持って、この困難な状況を乗り切っていきましょう。

「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から石の心を除いて、肉の心を与える」

                                  (エゼキエル書36章26節)

「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない」     (ヤコブの手紙1章21、22節)

 

私たちは日常の生活の中で、大きな問題に直面したり、まさかの出来事に遭遇した時に、しばしば心が折れそうになることがあります。そのような時、どんなことが起きても、どんな難局に置かれても、それらを乗り越える心を持つことが出来ればと、誰しもが思い願うのではではないでしょうか。

  

上記の旧約聖書のエゼキエル書に興味ある御言葉が記されています。「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から石の心を除いて、肉の心を与える」(36:26)と。ここに記されています神様が与えてくださる「新しい心」とはどんな心なのでしょうか。

 

注解書を開いてこの聖書の箇所を調べてみましたところ、次のように書かれていました。「『石の心』とは、主の御言葉に聞き従おうとしない、かたくなな心であり、『肉の心』とは主の御言葉に素直に聞き従う心である」と書かれていました。神様が与えてくださる新しい心とは「肉の心」であり、それは「主の御言葉に素直に聞き従う心」だということです。

 

私自身の心の状態をこの御言葉に照らしてみますと、いかに石の心の持ち主であるかということを知らされます。何もない時は柔和な肉の心の持ち主のように振る舞っていても、いったん自分に不都合なことが起こったり、自分に責任が問われるようなことが起こると、途端に石の心になって、反射的ともいえるほどに自己弁解したり、責任転嫁したりしてしまうのが、私の偽らざる姿です。

 

このように私たちは、何かあるとすぐに石の心の状態に戻ってしまうのが実状ではないでしょうか。私たちは、主の御言葉から離れると、たちまち石の心の持ち主になり、自分を誇り高ぶり、かたくなな心の状態になってしまうのです。

 

ヤコブは、そのような私たちに対して、上記の御言葉から次のように奨めました。「心に植え付けられている御言葉を素直に受け入れなさい。御言葉にはあなたがたの魂を救う力がある。そして御言葉を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない」(ヤコブ1:21、22)と。私たちに対して「ただ聞くだけの者となってはいけない」と戒めたのです。

 

私は長年、学校の教師として他人を教える立場に立ってきました。その中でいつも問われてきたことは、同じヤコブの手紙3章に記されています次の御言葉でした。「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである」(3:1)という御言葉です。

 

私はこの御言葉に自分自身を映すたびに、他人を教え導く前に、まず私自身が主の御言葉の前に謙遜に立ち、その御言葉を素直に受け入れ、聞き従っているかを問われてきました。他人のことをとやかく言う前に、すべてのことは、まずあなたからだと戒められてきました。

 

神様が与えてくださる新しい心、すなわち肉の心を得る秘訣は何でしょうか?それは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)とイエス様が言われましたように、その基盤となるのが主の御言葉です。すぐに石の心となってしまう私が、素直に主の御言葉に聞き従っていく時、肉の心を持つ者へと変えられていくのです。

 

肉の心を持つ者へと変えられた人の人生について、ヤコブの手紙1章25節に次のように記されています。「こういう人は、その行いによって祝福される」(新共同訳では「幸せになります」)と。肉の心を持つ人は、神様から多くの祝福が与えられ、幸せな歩みへと変えられていくと約束されているのです。

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