「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」
(テモテへの第二の手紙4章6~8節)
「追悼」とは、故人の生前の姿をたどりながら、その死を悼むということです。先週の土曜日(8/21)に大切な信仰の友を天に送りました。突然の出来事に、今は心にぽっかりと穴が空いたような想いです。この兄弟との出会いと歩みは深く私の心に残るものでした。
兄弟と30年ぶりに再会したのは、8年前に新会堂の建築に入った時でした。
当時、旧会堂をすべて解体して更地にし、仮会堂で礼拝を守っていました。兄弟は、名古屋から東京に上京の折り、その仮会堂を捜して来会されました。30年ぶりにお会いしましたので、初めは誰だかよく分かりませんでした。
しかし、話をするうちにだんだんと記憶がよみがえり、30年ぶりの兄弟との再会を実感できるようになりました。兄弟も再会した兄姉との交わりを心から楽しみ喜んでおられる様子でした。兄弟はその後、名古屋から転居して来られ教会の近くに住むことになりました。
兄弟の30年間の歩みは、まさに「山あり谷あり」の人生だったようで、高校を卒業して、北海道から東京に出てこられた時の原点に戻って、一から出直す覚悟で、東京での新しい生活を始められました。仮会堂での礼拝にも毎週欠かさず出席され、信仰の歩みにおいても新しいスタートを切られました。
まだ洗礼は受けられていませんでしたが、30年前にすでにイエス様を信じる決心をされていましたので、次第に洗礼への思いが深められ、新会堂での初めての礼拝となった2014年6月15日の「竣工記念礼拝」において洗礼を受けられ、クリスチャンとしての新しい歩みを始められました。(新会堂での洗礼者として、記念すべき第1号となられました)
新会堂の1年目は、無牧(牧師がいない状態)でしたので、兄弟に教会宿直と警備をお願いしました。長年、名古屋で警備員として働いておられましたので、安心して宿直と警備をお任せすることができました。私もその間、教会の留守番役として週日教会管理に携わりましたので、兄弟と一緒にお昼ご飯を食べながら、信仰の話やお互いの身のうえ話に花を咲かせて、主にある交わりを深めていきました。そのような日々の交わりを通して、兄弟は私にとって、かけがえのない信仰の友となっていきました。
兄弟は北海道から上京されて、電気機械関係の専門学校に通われていた経験があり、その分野の知識が豊富でしたので、新会堂における視聴覚関係の設定等に積極的に関わってくださいました。その後も教会の視聴覚の奉仕において、無くてはならない存在として活躍してくださいました。
また兄弟はアニメ動画を通して、多くの人にイエス様のことを伝えたいという願いを持っておられました。そこで兄弟が考えられたのが、深沢教会のホームページに掲載されています「初音ミク」というコンピューターの音声合成システムを使って音声動画を作成して、福音を伝えることでした。
兄弟が作成した動画は、ざっと数えただけでも200曲を超えます。また「初音ミク」へのアクセス数は1万4千件を超え、その関心の深さを伺い知ることができます。この動画の最後の方には、兄弟が今まで歩んできた短い証が書かれています。どれも深く胸を打つ内容です。このブログを読まれた方には、是非、兄弟が遺した作品に触れていただきたいと願っています。
最後に、愛するお父さんの遺体を前にして、娘さんが兄弟に送った言葉を紹介して追悼の言葉を閉じたいと思います。「お父さん、今までいつも私を優しく見守ってくれてありがとう。経済的には決して裕福だとは言えなかったけれど、安くて美味しい物や珍しい物を食べに連れて行ってくれた時は本当に楽しかった。私が就職して挫折し、一番苦しかった時には、長野の家まで私を訪ねて来てくれて本当にありがとう。東京に出てきて5年間、お父さんと一緒に過ごせたことは、私にとって最高に幸せな時間でした。今までご苦労様でした。あとはゆっくり休んでね。」
上記の娘さんの言葉に、兄弟が今まで生きてきた証が凝縮されているように思いました。名古屋から東京に出てきた時には、もう二度と会うことはないと思っていた最愛の娘さんと、人生の最後の5年間をともに過ごせたことは神様からの最高のプレゼントだったと思います。「娘さんとの5年間、本当に幸せだったね。私も君と8年間一緒に過ごせて楽しかったよ。ありがとう。」と霊安室で娘さんとともに兄弟に最後の言葉をかけさせていただきました。 <平安>