アドナイ・エレ

「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり) 創世記22章14節 この言葉は、アブラハムがその子イサクを神の言に従って、モリヤの山に行きささげようとした時に、み使いが現れてイサクの代わりに一頭の雄羊が備えられていることを告げられ、それを燔祭としてささげた所の名として付けられたものです。 65歳で突然天に召された敬愛してやまない故馬場哲雄兄が、この言葉にメロデーを付けられた賛美が「アドナイ・エレ」という曲です。「主にすべてささげて歩む、主にすべてをゆだねて歩む、そのときすべてが備えられる。アドナイ・エレ、アドナイ・エレ」という賛美です。 わたしは、いつもこの賛美を主にささげ、「アドナイ・エレ」の信仰をもって歩み続けていきたいと祈り願っています。

2021年06月

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」

(Ⅱコリント5:17)

「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」    (Ⅱコリント4:16)

 

私は、本日(6/30)71回目の誕生日を迎えました。聖書にはふたつの誕生日があることが書かれています。ひとつは肉体の誕生日で、もうひとつは霊の誕生日です。20歳の時(5/30)に洗礼を受けましたので、霊の誕生日は、今年で51回目を迎えたことになります。

 

今日で、もう70歳を超えたのかと思いますと、自分でも信じられない感覚が湧いてきます。私が50歳くらいの時に70歳の方を見て思ったことは、あんなに若かった人でも老いてしまうんだなと思ったことです。そのように思っていた私が70歳を超えたのです。きっと、周りからみたら私も相当老けたように見られているのだろうなと想像します。

 

しかし、自分の感覚では、握力もまだ20歳代の握力がありますし、視力も1,2で近眼も老眼もなく、普通に活字も読めますので、年をとったという感覚があまり湧いて来ないのが正直なところです。

 

 私が健康維持のためにこれまで心掛けてきましたことは、特別なことではなく、皆さんも取り組んでおられると思いますが、「快食・快便・快眠」です。消化の良い物をしっかり食べて、快適な睡眠をとるということです。

 

運動に関しては、長年の体育の教師としての経験を生かして、特別なトレーニングを行うのではなく、普段の生活の中で行う運動を実践してきました。たとえば、電車やバスに乗ったら、座席には座らず、つま先立ちで立つことによって、体のバランスを養ったり、アキレス腱の強化を図ってきました。また吊り輪をしっかりと力を入れて握ることによって握力の強化に努めてきました。

 

視力が衰えないようにするためには、遠いところと近いところを交互に見て眼筋を鍛え、聴力の維持のためにはテレビの音量を低くして聴くなどの工夫をしてきました。このように、特別なトレーニングをしなくても、普段の生活の中で色々と考え工夫すれば、いくらでも運動の機会を増やすことができるように思います。

 

そのような私が最近感じますことは、年とともに回復力が衰えてきたということです。連続して活動することが大分しんどくなってきたように思います。活動の質を落とさないで活動していくために、今、私が心掛けていますのが「一動一休(いちどういっきゅう)」という取り組みです。簡単に言いますと、一日動いたら一日休むということです。

 

このことを実践するようになって、活動が散漫にならず、ひとつひとつのことに集中できるようになりました。年をとっても充実した活動を続けていくためには、自分の力を過信しないで、休める時は完全に休むなどの工夫をしていくことが肝心なように思います。(上記の取り組みは、私の個人的な試みと体験ですが、少しでもこのブログを読んでくださった方の参考になればという思いで書いてみました。)

 

71年間を振り返って、今、私が心から感謝していますことは「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」と上記の御言葉にありますように、イエス様との出会いによって、霊の誕生の恵みにあずかることができたことです。

 

このことによって、悔いの多かった過去に感謝することができるように変えられ、思い煩うことの多い現実の歩みにおいても、イエス様がいつも共にいてくださることによって、希望を持って前向きに生きていくことができます。何と素晴らしい人生へと変えられたのだろうと深い感謝が湧いてきます。

 

誕生日を迎えるたびに、いくら体のケアをしていても、肉体の衰えを感じるのは事実です。しかし、「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」と御言葉に記されていますように、肉体の衰えと反比例して、イエス様と共にある歩みは、誕生日を重ねれば重ねるほど新しくされ、内なる喜びと感謝が幾倍にも増してくることを日々実感しています。

 

71回目の誕生日を迎え、ひとりのキリスト者として、ふたつの誕生日が与えられていることに改めて深い感謝を覚える時となりました。

     「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」
                    (新改訳:伝道者の書3章11節)

 

聖書の中には、2つの時があると書かれています。ひとつは私たちが考え計画する時であり、もうひとつは神様が定められた時です。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい(最高、パーフェクトの意味)」と上記の御言葉に記されていますように、私たちより神様の時の方が優れていることを表しています。

 

しかし、目先の現実しか見ることが出来ない私たちにとって、どうしても自分の判断、自分の考えがすべてに優先し、神様が定められた時を待ち、それを信じて委ねて生きていくことは難しく、至難の業のように思えてきます。

 

イエス様は、そのような私たちの弱さを知って「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ6:34)と語ってくださり、私たちに「明日を支配しているのは私であり、あなたがたは今の現実を精一杯生きることで十分ですよ」と慰め励ましてくださっています。

  

またイエス様は、悩みの多い私たちに対して「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と、語りかけてくださり、どんなに苦しい時も、悲しみに打ちひしがれている時も、悩みの時も、絶望と思える時も、イエス様がそれらのことから解放してくださる時を私たちに備えてくださっていることを約束されておられます。

 

今、多くの方がこのコロナ禍の中で苦しんでいます。人によっては、明日の生活さえ見えない状況の中に置かれている方もいらっしゃいます。私自身、ステイ・ホームを余儀なくされる中、この一年半余り何処にも遠出できず、同じ生活の繰り返しで、今まで感じたことがなかったようなストレスを感じる時があります。

 

このような状況の中で思うことは、「いつになったら今の状態から解放される時が来るのだろうか?」という不安な思いです。私たちが見ることが出来るのは、過去と現実だけです。明日のことは予測は出来たとしても、確実に明日を見ることが出来る人は誰ひとりとしていません。そのことが出来るお方はイエス様だけなのです。

 

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と約束されていますように、今の苦しみから解放してくださる「時」が必ず訪れることを信じて、この100年に一度と言われる荒波を、ともに乗り越えて行けたらと祈り願っています。

「料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、『どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました』。イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた」

(ヨハネによる福音書2章9~11節)

 

「趣味は何ですか?」と聞かれた時、私はいつも「料理です」と答えることにしています。しかし、そのたびに返ってくる反応は、意外な表情をされることがほとんどです。私のような「ごつい顔をした男」が料理をする姿を想像できないからでしょう。

 

私の実家は、熊本県山鹿市というところで製麺業を営んでいました。父はその2代目で、以前のブログにも書きましたように、2代目が一番難しいといわれますように大変な苦労をしました。1代目が築いた業績を継いで、さらにその業績を伸ばしていくために、父はさまざまな商品作りや設備投資に力を注ぎ、即席ラーメンやチキンラーメンなどの商品も手がけました。

 

中小企業でしたので、ラーメンのスープの味を決めるための試食に、私たち家族もかり出されることがあり、小さい時からスープの素になる色んな味を味わってきました。この時の経験から私の味覚は養われたように思います。料理の基本はスープにあると言われますが、このようなスープ作りに加わって味覚が養われたことに感謝しています。

 

この味覚ということに関して、本日の聖書の箇所に面白い記事が書かれています。「料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが」(2:9)と記されていますように、料理がしらは、ぶどう酒を飲まなくてもなめただけでその良し悪しが分かったのです。ここに登場する料理がしらは、プロ中のプロだったのでしょう。飲まなくてもただなめてみただけで味が分かったのですから、相当な味覚の持主であったことが伺えます。

 

 料理がしらがなめたぶどう酒は、今まで味わってきた中でも最高ランクに位置するほどのものだったのでしょう。わざわざ、婚宴の主催者である花婿を呼んで「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」(2:10)と言って、最高の賛辞を花婿に送っています。

 

料理がしらが花婿を呼んでまで感謝の思いを伝えたかったのは、今までの常識を超えて、宴会の最後の方に最高のぶどう酒を出してくれたことで、自分を含めた料理人たちひとりひとりが丹精込めて作った料理を、最後まで楽しんでもらえたからではないでしょうか。

 

 料理がしらは、そのぶどう酒がどこからきたかは知りませんでしたが、花婿に対して最高の賛辞を送っていますように、イエス様が提供されるものは、ぶどう酒作りの名人が作ったものにも匹敵するほどの、否、それ以上のものだったということです。これはイエス様というお方は、いつも私たちに最高のものを用意してくださることを表しています。

 

 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された」(2:11)と記されていますように、イエス様はここで単に水をぶどう酒に変えられただけではなく、私たちの常識を遥かに超えた神様の絶対的、圧倒的なみ業を現わしてくださったのです。「神がなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:11)とありますように、神様は時にかなって、最高のみ業を私たちに示してくださるのです。

 

 この聖書の箇所の最後に「そして弟子たちはイエスを信じた」(2:11)と書かれていますように、イエス様に同行し、これらの出来事の一部始終を見ていた弟子たちは、素直にイエス様のみ業を信じました。

 

「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」(ヘブル13:8)と記されていますように、この物語は2千年前に終わったのではなく、イエス様を信じる私たちにとっては、今も続いている出来事です。

 

どんな時代や状況の中にあっても、神様が最高のものを私たちに備えてくださっていることを信じて、今日もイエス様とともに新しい一歩を踏み出しましょう。

「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。シモンは答えて言った、『先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう』。そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった」        (ルカによる福音書5章4~6節)

 

ブログのプロフィールのところに掲載していますように、私は熊本県の山鹿市というところで生まれ育ちました。市の中心を菊池川が流れ、至る所に温泉が湧き、周囲を小高い山に囲まれた自然豊かなところです。山鹿燈籠祭りが有名で、その時期になると観光客で街中が賑わいます。現在では、八千代座という歌舞伎小屋が100年の時を経て復活し、全国的にも有名になっています。

 

私はそのような自然豊かな地で、まるで自然児のように野山を駆け回って、毎日を過ごしました。夏は川に潜って魚をもりで突いて川辺で焼いて食べたり、春や秋は山に登って木の実を食べたりして、小腹を満たしていました。またクマゼミやクワガタムシやカブトムシ、珍しいところではタマムシなど虫捕りに夢中になって過ごしました。

 

その中でもとくに魚取りには、かなりのめり込みました。魚釣りではなく魚取りです。釣りではなく取りとはどういうことかと言いますと、川の支流の小さな小川に入り川に沈んでいる石の間に手を入れて、魚をつかみ取りするのです。多い時は、友達と二人で100匹くらい取った記憶があります。大袈裟なようですが、今でもその時の感触が手に残っているほどです。

 

聖書の中にもペテロを筆頭とする弟子たちが漁師であったことから、漁に関する記事が多く出てきます。上述しましたように、私も子供の時に魚釣りや魚取りに没頭した経験がありますので、漁に関する記事には親しみを感じます。上記の聖書の箇所は、シモン(ペテロ)がイエス様から弟子としての召しを受ける場面が描かれているところです。

 

ペテロはここでイエス様から召しを受ける前に、すでにイエス様と出会い、姑が高熱を出して苦しんでいた時にイエス様を家にお呼びし、癒していただいた体験(ルカ4:38,39)を持っていました。そのイエス様が「沖へこぎ出して、網をおろして漁をしてみなさい」と言われたのです。

 

 ペテロは長年の漁師としての経験とプライドから「わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」とイエス様に答えました。ペテロがこのように答えたのはプロの漁師としては当然のことでした。なぜなら、漁は昼間明るい時に行うものではなく夜に行うものだったからです。

 

 しかし、ここでペテロはプロの漁師としての自分の経験に固執するのではなく、「お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と素直に従いました。そこには、上述しましたように自分の姑の癒しなど、すでに不思議な体験をしていた背景がありました。このようにイエス様というお方は、突然命令を下されるようなことは決してなさいません。必ず道備えをしてくださるお方です。

 

 するとどうでしょう。プロの漁師から見て、漁をするにはまったく相応しくない時間帯に、おびただしい魚の群れが網に入り、網が破れそうになったのです。何と一そうの舟には入りきれず、二そうの舟にいっぱいになり、舟が沈みそうになりました。この情景を見たペテロは、イエス様の前にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(5:8)と告白しました。

 

 ペテロはここで初めて、イエス様のことを「先生」ではなく「主よ」と呼びました。そこには活きのいい魚の群れを見て、ペテロが今までの人生の中で一度も体験しなかった、人間の力をはるかに超えた圧倒的な神の力とみ業を見たからではないでしょうか。ここにイエス様の言葉の持つ圧倒的な力があります。

 

 ペテロは、この体験を通してイエス様の召しに応え、イエス様に従って生きるという新しい人生へと導かれていきました。イエス様の御言葉は、古く腐りかけたような魚ではなく、ここでペテロがその力に圧倒されたように、「活きのいい魚」として、日々の生活の中で私たちの血となり肉となって、私たちを生かす原動力となります。

 

 毎日の生活の中でさまざまな思い煩いがあったとしても、「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」とペテロが告白したように、イエス様の言葉に従って、沖へ出て網をおろしてみてください。きっと圧倒的な主の臨在を見せていただけることでしょう。

「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。・・・野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。・・・きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか」

(マタイによる福音書6章26・28・30節)

 

上記の御言葉は、イエス様が語られた有名な山上の説教の中の一節です。(先のブログの中でも書きましたが、イスラエルを旅行した際に、実際にこの場所に立ったことがありました。確かにこの時の情景を彷彿させられるような所でした。)イエス様は、この聖書の箇所の中で6回も「思いわずらう」という言葉をお使いになっています。それほど当時の人々にとっても、毎日の生活で思いわずらうことが多かったのでしょう。

 

イエス様ご自身も「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることの出来ないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」(ヘブル4:15)と記されていますように、大工の長男としてお生まれになり、30年間この世での生活をされる中で、イエス様も日々の思いわずらいが、いかに多いかということを痛いほど分かっておられたのだと思います。

 

そのようなイエス様が、群衆を前にして山上に立たれ、「あの空の鳥を見てごらんなさい、あの野に咲く花を見てごらんなさい」と、まず人々の眼を天と地に向けられました。興味深いことに、ここでイエス様が示された鳥と花は単なる鳥と花ではありませんでした。

 

ルカによる福音書では、この鳥のことを「カラス」(ルカ12:24)と書かれています。また野の花は、当時一般的には「アザミ」のことをさし、枯れてしまえば燃料にするために、すぐに炉に投げ入れ捨てられてしまうような花であったということです。「カラス」は人々から忌むべき鳥、食べてはならない鳥(レビ記11:15)とされており、「アザミ」もとげを持つ花として、人々からあまり好まれない花(野の草)でした。

 

いずれも当時の人たちにとって、あまり大切な存在ではありませんでした。しかしイエス様は、そのような存在に対しても最大の関心を持たれ、それらを指し示して、天の父はそのような存在に対しても、最高のものを用意し養っていてくださっているではありませんか、まして、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがないではありませんかと教えられたのです。

 

 私たちに対する天の父の思いは「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(新改訳:イザヤ書43:4)というものでした。天地のどんな創造物よりも、最も高価で尊い存在はあなたがたであり、「わたしはあなたを愛している」と言われたのです。

 

 私たちは今、コロナ禍の中で明日への希望が持てないで、もがき苦しんでいます。ある人にとっては、毎日が思いわずらいの連続かも知れません。しかし天地のすべての生き物を創られた天の父は、責任を持ってそれらを養い育ててくださっています。まして「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1:27)と記されていますように、神のかたちに創造された私たちに、明日への道を開いてくださらないはずがないのです。

 

 今回の聖書の御言葉は、ひとりの兄弟と話し合い、祈り合っていた時に与えられたものです。どんなに苦しい状況の中にあっても、かならずイエス様が道を開いてくださり、御言葉に伴うしるしを持って、その確かなことを私たちに示してくださるのです。このイエス様の約束を信じて、見えない明日に向かって、イエス様と共に一日一日を大切に歩んでまいりましょう。

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