「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」
(Ⅱコリント5:17)
「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」 (Ⅱコリント4:16)
私は、本日(6/30)71回目の誕生日を迎えました。聖書にはふたつの誕生日があることが書かれています。ひとつは肉体の誕生日で、もうひとつは霊の誕生日です。20歳の時(5/30)に洗礼を受けましたので、霊の誕生日は、今年で51回目を迎えたことになります。
今日で、もう70歳を超えたのかと思いますと、自分でも信じられない感覚が湧いてきます。私が50歳くらいの時に70歳の方を見て思ったことは、あんなに若かった人でも老いてしまうんだなと思ったことです。そのように思っていた私が70歳を超えたのです。きっと、周りからみたら私も相当老けたように見られているのだろうなと想像します。
しかし、自分の感覚では、握力もまだ20歳代の握力がありますし、視力も1,2で近眼も老眼もなく、普通に活字も読めますので、年をとったという感覚があまり湧いて来ないのが正直なところです。
私が健康維持のためにこれまで心掛けてきましたことは、特別なことではなく、皆さんも取り組んでおられると思いますが、「快食・快便・快眠」です。消化の良い物をしっかり食べて、快適な睡眠をとるということです。
運動に関しては、長年の体育の教師としての経験を生かして、特別なトレーニングを行うのではなく、普段の生活の中で行う運動を実践してきました。たとえば、電車やバスに乗ったら、座席には座らず、つま先立ちで立つことによって、体のバランスを養ったり、アキレス腱の強化を図ってきました。また吊り輪をしっかりと力を入れて握ることによって握力の強化に努めてきました。
視力が衰えないようにするためには、遠いところと近いところを交互に見て眼筋を鍛え、聴力の維持のためにはテレビの音量を低くして聴くなどの工夫をしてきました。このように、特別なトレーニングをしなくても、普段の生活の中で色々と考え工夫すれば、いくらでも運動の機会を増やすことができるように思います。
そのような私が最近感じますことは、年とともに回復力が衰えてきたということです。連続して活動することが大分しんどくなってきたように思います。活動の質を落とさないで活動していくために、今、私が心掛けていますのが「一動一休(いちどういっきゅう)」という取り組みです。簡単に言いますと、一日動いたら一日休むということです。
このことを実践するようになって、活動が散漫にならず、ひとつひとつのことに集中できるようになりました。年をとっても充実した活動を続けていくためには、自分の力を過信しないで、休める時は完全に休むなどの工夫をしていくことが肝心なように思います。(上記の取り組みは、私の個人的な試みと体験ですが、少しでもこのブログを読んでくださった方の参考になればという思いで書いてみました。)
71年間を振り返って、今、私が心から感謝していますことは「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」と上記の御言葉にありますように、イエス様との出会いによって、霊の誕生の恵みにあずかることができたことです。
このことによって、悔いの多かった過去に感謝することができるように変えられ、思い煩うことの多い現実の歩みにおいても、イエス様がいつも共にいてくださることによって、希望を持って前向きに生きていくことができます。何と素晴らしい人生へと変えられたのだろうと深い感謝が湧いてきます。
誕生日を迎えるたびに、いくら体のケアをしていても、肉体の衰えを感じるのは事実です。しかし、「たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」と御言葉に記されていますように、肉体の衰えと反比例して、イエス様と共にある歩みは、誕生日を重ねれば重ねるほど新しくされ、内なる喜びと感謝が幾倍にも増してくることを日々実感しています。
71回目の誕生日を迎え、ひとりのキリスト者として、ふたつの誕生日が与えられていることに改めて深い感謝を覚える時となりました。