アドナイ・エレ

「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり) 創世記22章14節 この言葉は、アブラハムがその子イサクを神の言に従って、モリヤの山に行きささげようとした時に、み使いが現れてイサクの代わりに一頭の雄羊が備えられていることを告げられ、それを燔祭としてささげた所の名として付けられたものです。 65歳で突然天に召された敬愛してやまない故馬場哲雄兄が、この言葉にメロデーを付けられた賛美が「アドナイ・エレ」という曲です。「主にすべてささげて歩む、主にすべてをゆだねて歩む、そのときすべてが備えられる。アドナイ・エレ、アドナイ・エレ」という賛美です。 わたしは、いつもこの賛美を主にささげ、「アドナイ・エレ」の信仰をもって歩み続けていきたいと祈り願っています。

2021年05月

この動画は、新会堂が建設された年に説教したものです。ブログのタイトルである「アドナイ・エレ」について語っていますので、お聞きいただければ幸いです。



「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」

               (マタイによる福音書20章26~28節)

 

上記に記された御言葉を読んでいますと、いつもひとりの兄弟のことが頭に浮かんできます。その兄弟は、私が所属しています教会で草創期から長年に亘って教会の長老として仕えてきてくださった方です。兄弟は10年前に天に召されましたが、「教会に仕える」ということがどういうことかを、その生き様を通して、私に教えてくださいました。

 

兄弟は、実に真面目で堅実な方で礼拝が近づきますと前日から準備を始められ、当日は誰よりも早く教会においでになり、教会廻りの清掃、椅子並べ、座布団の汚れ落とし、トイレの掃除など礼拝の場を整えるために率先して、それらを黙々と行っておられました。また書道がお得意でしたので、礼拝のお知らせなど教会の立て看板はすべて兄弟が書かれていました。

 

兄弟はさまざまな会議においても、決して大声を出されず、私たち年若い者たちの意見にも耳を傾けてくださる謙遜で温厚な方でした。そして、どんな奉仕に対しても、いつも真摯な姿勢で臨まれていました。私が初めて礼拝の司会の奉仕にあずかった時も、その心得えを話してくださり、「礼拝の司会は一週間前から始まっています。よく祈って準備して臨んでください」と、祈り整えて奉仕に臨むことの大切さを教えていただきました。このことは、今でも大切な教えとして深く心に刻まれています。

 

ご退職後は、日直者として無給で朝から夕方まで毎日欠かさず、教会に仕えてくださいました。兄弟のお蔭で教会はいつ来ても、綺麗に整理整頓されており、教会に来ると兄弟が「お帰りなさい」と言葉をかけてくださり、教会から出掛けていく時には「行ってらっしゃい」と私たちを送り出してくださいました。兄弟のこのような働きによって、教会が霊的なホーム(家族)であることを自然の内に根付かせてくださいました。

 

また教会員の誕生日、受洗日、結婚記念日などを細かくノートに書いておられ、対象者には心のこもった文章を書いたハガキを必ず送り届けてくださいました。晩年は体調を崩して入院されることがあり、お見舞いのため何度か病院を訪れる機会がありましたが、ベッドの上でそれらのハガキを書いておられる姿を見て、心打たれたことがありました。そのように、どんな条件のもとでも言い訳をしないで、忠実に主に仕えられる兄弟でした。

 

 イエス様がタラントの譬えの箇所で2度も言われた言葉、「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25:21・23)との言葉は、まさに兄弟に対して言われた言葉だと思います。兄弟は、どんな小さな奉仕に対しても決して手を抜かれず忠実に仕えておられました。

 

 兄弟が天に召される前に、私を自宅に呼んでくださり、私の手をしっかりと握って祈ってくださったことがありました。私はその時、私も兄弟が行ってきてくださったように、どんな小さな奉仕に対しても忠実に行っていこうとの思いが、その握られた手から伝わり、私の内側から湧いてくるのを感じました。

 

 その1ケ月後に兄弟は、天に召されました。死後、すぐに自宅を訪ねましたが、その姿は、地上での働きを終えて、天をしっかりと仰ぎ見るような穏やかな表情でした。死に至るまで忠実に主に仕えてこられた兄弟の大往生でした。

明日はペンテコステ記念礼拝です。この動画は、3年前に北九州の教会でペンテコステの時に説教したものです。イエス様が聖霊様を与えて下さった意味を、ともに学ぶことができれば幸いです。

「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である」

(ヨハネの第一の手紙4章7、8節)

 

 次週(5/23)は、ペンテコステ記念礼拝です。(私自身、50年前のこの日に8名の兄姉と共に洗礼を受けました)ペンテコステは、クリスマス、イースターと比べますと日本人にとって馴染みが薄く、意味を知らない方も多くおられるのではないかと思います。しかし私たちクリスチャンにとって、クリスマス、イースターと同じように、ペンテコステは大切な日なのです。なぜなら、ここから初代教会の歩みが始まったからです。

 

 イエス様が十字架の死に向かって歩み始められようとされた時、弟子たちに対して、次のように語られました。「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」(ヨハネ15:26)と。

 

 ペンテコステとは、ここでイエス様が約束されていますように「真理の御霊が下る時」であり、「イエス様のことを証しすること」を表しています。では、イエス様のことを証しするとは、何を証しすることなのでしょう。それは、「御霊の実は愛である」(ガラテヤ5:22)と聖書に記されていますように、イエス様のご性質である「愛」を証しすることではないでしょうか。

 

 イエス様の愛については、聖書の中で「愛の章」として有名なコリント人への第一の手紙13章に次のように書かれています。「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで

真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(13:4~7)と。

 

 イエス様のご性質とその生涯は、まさにこの愛の章に書かれている通りでした。イエス様の歩みは、決して平坦なものではありませんでした。それは痛みと苦しみをともなう十字架への歩みでした。イエス様は、私たちのすべての罪を背負い、十字架にかかって私たちを愛し赦してくださいました。

 

 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。

ここに愛がある」(Ⅰヨハネ4:10)と記されていますように、イエス様の十字架は、まさに神様の私たちに対する愛の表れだったのです。

 

 初代教会の人々は、このイエス様の愛に活き動かされて、「日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである」(使徒行伝2:46、47)と記されていますように、人々はイエス様の愛によっていつも心を一つにして、互に愛し合い、イエス様の愛を証ししていったのです。

 

このようにペンテコステから始まった教会の使命は、イエス様からの無限の愛を受けて、互に愛し合っていくことであり、イエス様の愛を多くの人に証ししていくことだということを知らされます。このことを深く心にとどめ、新たな思いを持って、今年もペンテコステを迎えることができますよう祈り願っています。

 

「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」

(ヨハネ第一の手紙4章11、12節)

「それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからで

ある。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜

わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからで

ある」            (ローマ人へ手紙5章3~5節)

 

今、コロナ禍の中で多くの方が希望を失っています。暗闇に閉じ込められたような状況の中で、必死に一筋の光を求めて毎日の生活を送っているというのが現状ではないでしょうか。私自身このような閉塞感漂う状況の中で、前回のブログに書きましように「主よ、どうかわたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」と祈る毎日です。それは今多くの方が、このような状況がいつまで続くのだろうかという不安の中で苦しんでおられるからです。

 

今まで数々のしるしを見せてきてくださったイエス様が、必ず解決の道を備え開いてくださると信じていても、身近で現実的に苦しんでおられる方の姿を見るたびに「主よ、何故ですか?このような状態はいつまで続くのですか?」という嘆きの言葉が口をついて出てきます。それほど今の状況は、私たちの想像をはるかに超えた想定外の出来事だということを痛感します。

 

そのような暗澹たる想いを抱いていた時、ひとりの姉妹の証の記事が眼に入ってきました。その記事は「クリスチャン新聞福音版」(5月号)に掲載されていたものでした。私はこの記事を読んで大きな衝撃を受けるとともに、暗闇の中に光る一筋の希望の光を見たような思いになりました。

 

その方は、結婚して3人のお子さんの母親になられた後、重症筋無力症全身型という難病にかかられたということです。この病は、徐々に筋力が失われていき、最後は呼吸も出来なくなる難病で、がんと同じようにまだ明確な治療法が見つかっていない病です。

 

私もこの病によって身近な人を2人亡くしました。2人とも、あんなに元気だったのにと思える方々で、病の進行がとても早く、本当に「アッ」という間に天に召されました。この経験から私は、この病にかかったら回復することは、ほとんど難しいだろうとずっと思っていました。ところが、その方のうえに主の奇跡が起ったのです。

 

 記事の中には、次のようなことが書かれていました。「苦しみの中で見えたのは、黒い雲の間から伸ばされた手だった。私はそれが神様の手だとはっきりわかりました。その手に向かい懸命に体を起こして、その手をつかみました。『よく頑張ったね。さあ、帰ろう』思い切り上に向かって私は引き上げられました。

 

 その後蘇生し、後に医師が論文で発表したほどの劇的な回復ぶりだったが、『家族を残して行ったとしても、天国の方にいたかったと思うほど、天国での体験は素晴らしかった』という。『天国があることを知り、その日まで一歩一歩神様と共に歩んでいけば、最期にはちゃんと神様が迎えに来てくださる。それを知って生きていける人生ほど希望に満ちた人生があるでしょうか。これがキリスト教の醍醐味だと確信しました』」と書かれていました。

 

 生存率が果てしなく0%に近いと言われる難病に侵され、死という絶望を体験されたひとりの姉妹が、イエス様と共にあるならば、決して希望は失望に終わることがないことを証明されたのです。キリスト教信仰の醍醐味は、この姉妹が言われていましたように、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書28:20)とイエス様が約束してくださった通り、どんな時も全知全能であるイエス様が私たちと共にいてくださり、私たちを守り支え助けてくださることです。

 

 私たちは今、100年に一度起こるかどうかと言われるほどの困難な状況の中に置かれています。しかし、どんな状況にあっても、主にある希望は決して失望に終わることはないことを、ひとりの姉妹に起こったひとつの奇跡を通して、イエス様が私たちに教え示してくださっているのではないでしょうか。

 

     「この幻はなお定められたときを待ち、

終わりをさして急いでいる。それは偽りではない。

もしおそければ待っておれ。

それは必ず臨む。滞りはしない。」
             
              (旧約聖書:ハバクク書2:3)

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