「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中か
らよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたの
である」 (コロサイ人への手紙2章12節)
来週は、コロナ禍の中でのイースターを迎えます。私が所属しています深沢教会では、この記念すべき良き日に、ひとりの兄弟がバプテスマ(洗礼)の恵みにあずかられます。このことは、ご本人にとって大きな喜びの日であるとともに、教会にとっても最高の祝福の時でもあります。それは、先にバプテスマの恵みにあずかった私たち教会員も、ともに主の祝福にあずかることができるからです。
今週の礼拝のあと、ある兄弟とお話をしていた時に、その方が興味深いことを話してくださいました。「私はクリスチャンという存在は、一面イエス様の十字架の死に涙できる人だと思うんです」と。私は何気なく話された兄弟のその言葉を聞いて、思わず、心の中で「アーメン(その通りです)」と言わずにはおれませんでした。
今週の金曜日(4月2日)は、イエス様の受難日です。私たちのすべての罪を背負ってイエス様が十字架にかかられた日です。この刑に処せられた人は、どんな人であっても気が狂ってしまうとまで言われた十字架刑という極刑の苦しみの中で、イエス様は、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」(ルカ23:34)と、私たちを愛し赦してくださいました。長い人類の歴史の中で、この言葉を言い得た方は、イエス様おひとりだけです。
以前、ブログ「塩狩峠」の中に書きましたが、私がこの十字架上でのイエス様の言葉に深く心打たれたのは、50年前の伝道集会で、ある年若い牧師が眼に涙をいっぱいに浮かべて、このことを語っておられたのを聞いた時でした。初めてこの言葉を聞いた時、私のからだ中に電流が走ったような、それまでの人生で一度も経験したことがなかった感動を覚え、いつしか私の眼にも涙が溢れていました。そして、この時の体験を通して、イエス様を信じて生涯歩んでいく決心が与えられ、次の年に8名の兄弟姉妹と共に、洗礼の恵みにあずかることができました。
あれから50年、その後も沢山のバプテスマ式に参列させていただいてきました。そのたびに上記の御言葉にありますように、私自身もイエス様と共に葬られ、イエス様と共によみがえらされた神の力を信じる信仰によって、今も生かされていることを知らされています。
次週のイースターに、ひとりの兄弟がバプテスマを受けて、信仰の仲間に加えられることに感謝し、イエス様の十字架の死に涙した感動と復活されたイエス様に対する感謝と喜びを持って、今回も新たな気持ちでイースターを迎えたいと思います。