アドナイ・エレ

「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり) 創世記22章14節 この言葉は、アブラハムがその子イサクを神の言に従って、モリヤの山に行きささげようとした時に、み使いが現れてイサクの代わりに一頭の雄羊が備えられていることを告げられ、それを燔祭としてささげた所の名として付けられたものです。 65歳で突然天に召された敬愛してやまない故馬場哲雄兄が、この言葉にメロデーを付けられた賛美が「アドナイ・エレ」という曲です。「主にすべてささげて歩む、主にすべてをゆだねて歩む、そのときすべてが備えられる。アドナイ・エレ、アドナイ・エレ」という賛美です。 わたしは、いつもこの賛美を主にささげ、「アドナイ・エレ」の信仰をもって歩み続けていきたいと祈り願っています。

2020年10月

「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。まさか、むだではあるまい。」

(ガラテヤ人への手紙3章3~4節)

 

以前にも書きましたが、私は毎朝、家内とともにデボーション(御言葉と祈りの時)を持っています。そこで繰り返し読んでいますのが、榎本保郎先生が著された「旧約聖書1日1章」です。この書物は内容的にも素晴らしく、私の霊的な養いにとって、なくてはならないものになっています。それはこの書物の中に、命がけで御言葉とともに生きてこられた榎本先生の生きざまといのちが満ち溢れているからです。

 

 現在、サムエル記(上)の御言葉をいただいていますが、その中で榎本先生が、登場人物であるダビデに関して、次のような興味深い文章を書かれています。内容を要約しますと「かつてダビデが少年であった頃、巨人ゴリアテと戦うために出ていく時、『わたしは万軍の主の名、すなわちイスラエルの神の名によって戦う』と言って出て行き、見事にゴリアテを倒した。しかし、サウル王からいのちを狙われ、追いつめられた時、何の武器も持っていなかったため、祭司アヒメレクに何か武器になる物はないかと尋ねた際、かつて自分が倒した『ゴリアテのつるぎ』があることを知らされ、『それにまさるものはありません。それをわたしにください』と申し出た。巨人ゴリアテを恐れず立ち向かっていったのもダビデ、サウル王を恐れて、かつて自分が倒した『ゴリアテのつるぎ』に頼ったのもダビデ、それと同様に私たちも常に二人の私を持っている。信仰者として神に頼る私とこの世を恐れて物に頼る私である。信仰とは神よりもこの世に頼ろうとする私との戦いである」と書かれています。

 

 この文章を読んだ時、まさに私自身の信仰の歩みそのものであることを知らされました。それは自分の中にも、少年ダビデのように、ただ信仰によってさまざまな問題に対処してきた自分とこの世を恐れこの世の常識や知恵や知識に頼ってきた自分の両方があるからです。榎本先生が自らの体験を踏まえ、「信仰とは、神よりもこの世に頼ろうとする私との戦いである」と書いておられますように、いつも問われるのは、私自身の信仰の姿勢にあることを知らされます。

 

 上記の御言葉でパウロがガラテヤ人に対して「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか」と記していますように、厳しくその信仰の姿勢を問いただしています。この手紙の全文を読むとパウロの厳しい叱責の声が、手紙の中から聞こえてくるようです。しかし、それはガラテヤ人や私たちに対するだけのものではありませんでした。この手紙の最後の方でパウロが「わたしもこの世に対して死んでしまったのである」(6:14)と記していますように、この世との戦いは、パウロ自身の戦いでもありました。

 

 この世の力の象徴である「ゴリアテのつるぎ」は、私たちにとって、時として魅力ある物のように見えます。しかし、少年ダビデが神に対する信仰によって、ゴリアテを倒したように、神の前には無力です。イエス様が「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と力強く宣言されたように、この世に惑わされ、揺り動かされ、飲み込まれそうになる私たちであっても、すでにこの世に勝利されているイエス様の助けと支えと導きによって、固く信仰に立っていくことが出来るのです。

 

 はかなく空しい「ゴリアテのつるぎ」に頼るのではなく、どんな苦しい時もいつも私たちとともにいてくださるイエス様に頼って、この厳しい現実の中をともに力強く生き抜いていくことが出来るよう心から祈り願っています。

「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」(新改訳:ローマ5章3~5節)

 

私は、聖書を調べる時、いつも3種類の聖書を読むことにしています。それは、口語訳聖書と新改訳聖書と新共同訳聖書です。いずれも教会で正式に用いられている聖書ですが、これらを読み比べてみますと訳に若干の違いがあり、大変参考になっています。

 

上記の聖書の箇所もそのひとつです。口語訳、新共同訳のいずれも、この箇所は「忍耐は錬達を生み出し」と訳されていますが、新改訳では、「錬達」ではなく「練られた品性」と訳されています。

 

私たちの人生にとって、患難や苦難は出来れば避けて通りたい事柄です。痛みや苦しみを負うことを願う人など誰ひとりいないと思います。しかし、イエス様が「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(口語訳:ヨハネ16:33)と言われていますように、私たちがこの世で生きていく中にあって、患難や苦難は避けて通れないものだということです。順風満帆な人生など何処にもないのではないでしょうか。傍から見れば何の問題もないように見える人であっても、一歩内に入ってみると、さまざまな問題を抱えて生きているのが私たちの実情です。

 

大切なことは、このような事柄から逃げないこと、諦めないこと、投げ出さないことです。上記の御言葉に記されていますように、忍耐に忍耐を重ねていくことが大切なのではないでしょうか。そこを越えていく時にもたらされるものが、「練られた品性」だと書かれています。私は、この御言葉に出会った時、何と的確な訳だろうと深い感動を覚えました。英語の聖書では、この箇所を「Character(キャラクター)」と書かれていますように、患難や苦難を経て、私たちの人格や品性は、練られたものとして形成されていくということです。

 

私自身もこれまでの人生の中で、さまざまな患難や試練に遭ってきました。あまりの苦しさから何度も必死で主に祈ったこともありました。教会の問題、職場の問題、家庭の問題など、これらの問題に遭うたびに逃げ出したくなったり、投げ出したくなったりする思いになったことがありました。しかし、そのたびに知らされてきたのは、忍耐して待つことの大切さでした。主に希望をもって忍耐して待つことによって、必ず終わりがあること、解決があることを知らされてきました。「希望は失望に終わることがない」と御言葉に約束されていますように、これまでの人生の中で、主にある希望が失望に終わったことはありませんでした。

 

御言葉に「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」(新改訳:Ⅰペテロ5:5)と記されていますように、私たちは自分でも知らないうちに、いつの間にか自分のことを自己正当化したり、自己正義化して高慢になってしまいます。「みな互いに謙遜を身に着けなさい」と記されていますように、患難や試練によってもたらされる「練られた品性」とは、謙遜になることを教えているのではないでしょうか。

 

「キリストは、・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(新共同訳:フィリピの信徒への手紙2:8)と記されていますように、イエス様の生涯は、まさに謙遜の極致のような歩みでした。

 

いつも主の前に自分の高慢さを砕かれて、このようなイエス様の歩みに倣い従う者でありたいと祈り願っています。

 

 

 

 

「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。これを琴に合わせ、聖歌隊の指揮者によって歌わせる。」

(ハバクク書3章18~19節)

 

 「負うた子に教えられる」ということわざがありますが、70歳を過ぎて、これまでの自分自身の歩みを振り返ってみますと、私が何かを行ってきたというより、多くの人に支えられ助けられ教えられて、今があることを痛感させられます。若い時は、子供に対しては自分が育てているんだとか、生徒に対しては自分が教えてあげているんだとか、恥ずかしながら、そのような傲慢な思いがあったことを知らされます。

 

 現在、朝の連続テレビ小説で「エール」という番組が放送されています。多くの方がご覧になっていると思いますが、先週は「歌の力」というテーマで、一週間放映されていました。歌は、どんな時代にあっても、私たちに勇気と希望と力を与えるものです。クリスチャンにとって、賛美もまた同じように主にある希望と力を与えるものです。私はこの「賛美の力」を娘から深く教えられました。

 

 私の娘は、長い間原因不明の頭痛に悩まされてきました。周りで見ていても、それは先が見えない辛く厳しい戦いでした。そんな中にあっても、娘は賛美の中にとどまり続けました。というより、賛美だけが娘を支える唯一のものでした。「10,000 Reasons」という賛美の中に、「あなたの御名をほめたたえます。今まで歌ったことがないくらいに、あなたの御名をほめたたえます。どんな道を歩んでいても、また過去がどんな自分であっても、あなたを賛美できるようにしてください」という歌詞があります。傍から見ていても到底賛美できるような状態ではなかったにもかかわらず、娘はどんな苦しい状態の中でも賛美を聴き続けました。

 

 このような状況の中にあった時、ひとつの御言葉が与えられました。それが上記のハバクク書の中の御言葉でした。そこには「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない」(ハバクク2:3)と書かれていました。この御言葉から、今の辛く厳しい戦いにも必ず終わりがくることを知らされ、希望の光が射してきたような平安な思いになりました。

 

 そして、この時を境に娘の状態は次第に回復へと導かれていきました。どんな状況の中にあっても、一筋の光を求めて、賛美の中にとどまり続けた娘の姿に、主が応えてくださったのです。このことを通して、改めて賛美は力であることを娘の姿から深く教え知らされました。

 

私たちにとって賛美をささげ続けることは、上記の御言葉に「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって・・」とありますように、私たちがどんな状況の中に置かれていても、主がともにいてくださり、私たちを助け励まし力となってくださるのです。

 

これからも、どんな時も主を賛美することを止めないで、いつも主とともに歩んでいけたらと祈り願っています。

2020年9月27日に深沢教会にて行われた説教動画を公開いたします。




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