「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは夜にも暗闇にも属していません」 (テサロニケの信徒への手紙(Ⅰ)5章4・5節)
11月13日(日)北九州にある企救エクレシア20周年記念礼拝で御言葉を取りつぐことために、3年ぶりに企救エクレシアを訪れました。前日の12日(土)から北九州に行き、企救エクレシアの会堂の椅子に座って黙想していますと、3年前のことが走馬灯のように甦り、「アッ」という間に空白の時が埋まり、3年前のことが昨日のように思い出されてきました。
企救エクレシアは20年前に深沢教会の枝教会として建てられました。この間さまざまなことがあり、現在は深沢教会の支援を受けながら単立教会として働きを続けています。この教会の礎を築いたのは故B兄弟でした。今も毎週の礼拝の中でこの兄弟が作詞・作曲した「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり)という賛美が歌われていますが、この教会に遺した兄弟の足跡は多大なものがありました。
「主にすべてをささげて歩む。主にすべてを委ねて歩む。その時、すべてが備えられる」このアドナイ・エレの曲の短い歌詞の中に兄弟のすべての歩みが凝縮されているように思います。この歌詞に表わされていますように、兄弟の歩みは、まさに有言実行の歩みでした。信仰者にとって有言とは、自分の思いや考えではなく聖書の言葉を指します。兄弟の歩みは、徹底して聖書の言葉に聴き従って、それを実行していくという信仰者としての生き方でした。
神のひとり子であるイエス様もまた徹底して父なる神様の言葉に聴き従って歩まれた生涯でした。その最後が「十字架への歩み」でした。それは過酷を極めるものでした。イエス様ご自身、ゲッセマネの園で「『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください』・・イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ22:42~44)と記されています。そこには、命を懸けて徹底して私達ひとりひとりを愛し、愛し抜くというイエス様の姿がありました。
すぐに自己正当化したり責任転嫁してしまうような私達は、どうすればそのような生き方に変えられるのでしょうか。そのことについて本日の聖書の箇所に次のように記されています。「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。・・あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは夜にも暗闇にも属していません。・・わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」(5:4~8)と。
私達がなすべきことは暗闇の世界に属する関係を断ち切り「光の子、昼の子」とされたことに感謝して、その道を歩み続けることです。暗闇とはまさに闇の世界、暗黒の世界です。そこには夢も希望もありません。あるのは絶望と諦めであり、永遠の死に至らせる世界です。しかしイエス様の救いにあずかった私達は「光の子、昼の子」とされ、夢と希望に満ちた世界に属する者とされたのです。そこは希望の光に照らされ、喜びと感謝に満ちており、永遠のいのちに至る世界なのです。
また上記の御言葉に記されていますように、救いの希望の兜をかぶったということは、どんな暗闇をも照らす「光の子、昼の子」となったということを表しています。弱くてもろくて、すぐに思い煩ってしまう私達が、自分の力ではどうすることも出来ない私達が、イエス様の十字架の愛によって「光の子、昼の子」とされたのです。私達はいつも信仰と愛を胸当てとして着け、救いの兜をしっかりとかぶることによって、イエス様の愛の中に生きる者、生き続けることが出来る者に変えられたのです。もはや暗闇の中に引きずり込まれることはなくなりました。何と感謝なことでしょうか。
今、私達が置かれています状況はコロナや戦争の問題など、さまざまな暗いニュースで溢れています。まるで暗闇の世界に置かれているようです。しかし、私達はイエス様の十字架によって暗闇の世界から解放され、「光の子、昼の子」とされました。夢と希望に満ちた世界に属する者とされたのです。このことの上にしっかりと立って、「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり)の信仰を固くこの手に握って、襲いくる荒波を乗り越え、再び私達を引きずり込もうとする暗闇に打ち勝ち、「光の子、昼の子」として力強く歩んでまいりましょう。必ず主の祝福があることを信じます。