アドナイ・エレ

「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり) 創世記22章14節 この言葉は、アブラハムがその子イサクを神の言に従って、モリヤの山に行きささげようとした時に、み使いが現れてイサクの代わりに一頭の雄羊が備えられていることを告げられ、それを燔祭としてささげた所の名として付けられたものです。 65歳で突然天に召された敬愛してやまない故馬場哲雄兄が、この言葉にメロデーを付けられた賛美が「アドナイ・エレ」という曲です。「主にすべてささげて歩む、主にすべてをゆだねて歩む、そのときすべてが備えられる。アドナイ・エレ、アドナイ・エレ」という賛美です。 わたしは、いつもこの賛美を主にささげ、「アドナイ・エレ」の信仰をもって歩み続けていきたいと祈り願っています。

「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである」

(コリント人への第一の手紙9章24・25節)

 

 今週の日曜日(4月4日)に2つの出来事から大きな感動をいただきました。ひとつは、深沢教会で行われたバプテスマ式でのことです。今回、ひとりの兄弟がバプテスマの恵みにあずかられましたが、その時、兄弟が話された信仰告白に感動しました。兄弟はかつてラグビーの選手として活躍され、現在はスポーツジムで働いておられる方です。その兄弟が信仰告白の中で次のように話されました。「自分は選手生命にかかわるような大怪我をし、それを乗り越えてレギュラーを勝ち取り、選手として活躍してきましたが、引退後ずっと虚無感を持ちながら生活してきました」と。

 

このお証を聴いていて、私自身がイエス様と出会った時のことを思い出しました。詳細については、ブログ「朽ちない冠」(その1)に書いていますように、私も一競技者として競技を続ける中で、ずっと自分ではどうしようもないような深い空虚感を味わったことがありました。そのことが長い間、私の中に残り解決されないままになっていました。しかし、教会に集い、聖書を読むようになってイエス様と出会い、自分の力ではどうしても解決できなかった空虚感から解放されました。それは理屈ではなく、バプテスマ(洗礼)という新生の体験を通して与えられたものでした。

 

バプテスマとは、「イエス様と共に葬られ、イエス様と共によみがえること」(コロサイ2:12)と御言葉に記されていますように、それは単なる儀式ではなく、イエス様と共に古い自分に死んで、イエス様と共に新しい自分に生きていくスタートの時です。今回、バプテスマの恵みにあずかって、バプテスマ槽から出てこられた兄弟のすがすがしい表情を見ていて、兄弟も私が体験した時と同じように、虚無感から解放されたことを確信させられました。ひとりの兄弟のバプテスマを通して、改めてイエス様と共に新しい自分に生きることの素晴らしさを知らされ、幸せなひと時となりました。

 

 もうひとつの感動は、前述のブログ「朽ちない冠」(その1)の中に書きました、ひとりの女子アスリートの姿を通してでした。このブログは、昨年の2月27日に書いたものですが、そこにはその選手のことを次のように書いています。「東京オリンピックで金メダルの有力候補として期待されていた女子選手が突然の病魔に襲われ、その夢を断たれた。この選手がテレビのインタビューに答えて次のように話した。『私は、このことを通して、命があること、生きていること自体が奇跡だと思いました。私がここまで回復して、次のオリンピックを目指している姿を見て、今、同じように病魔と闘い苦しんでいる人達に、少しでも、勇気と希望が与えられたらと思っています』と。なんと真摯で実直で誠実な応答だろうと胸が熱くなった」と。

 

 その選手が、なんと先日の4月4日の東京オリンピック選考会のレースで優勝を果たしたのです。病気が病気であっただけに、今回のオリンピックに出場することは、不可能だろうと言われていたにも関わらず、出場が可能になったのです。どのメディアも、このレースのことをまさに神がかり的なレースだったと伝えていました。レースのあと、この選手は次のようにインタビューに答えていました。「まさか私が優勝できるとは思ってもみませんでした。自分でも信じられません。ここまで来れたのは、多くの方々の支えがあったからです。『努力は必ず報われる』ということを改めて知らされました」と涙ながらに語っていました。

 

 私は、その選手の語った言葉に深い感動を覚えました。この選手が突然の病魔に襲われ、先が見えない状態に置かれた時に「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(Ⅰコリント10:13)という聖書の言葉から自分の現在の心境を語っていた時のことを思い出しました。真実なる神様は、いつも私たちの姿を見ておられるのです。その選手が語った「努力は必ず報われます」という言葉の重さに改めて深い感動を覚えました。

 

 「すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする」と上記の御言葉にありますように、競技者にとって大切なことは、日々の努力です。その選手が示してくれたように、その努力は並大抵ものではなく、想像を絶するほどのものです。私たち信仰者も日々節制をします。真実なる神様は、いつもその姿を見ていてくださり、私たちの上に「死に至るまで忠実であれ、そうすれば、いのちの冠を与えよう」(ヨハネ黙示録2:10)との御言葉を成就してくださるのです。

 

「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中か

らよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたの

である」              (コロサイ人への手紙2章12節)

 

来週は、コロナ禍の中でのイースターを迎えます。私が所属しています深沢教会では、この記念すべき良き日に、ひとりの兄弟がバプテスマ(洗礼)の恵みにあずかられます。このことは、ご本人にとって大きな喜びの日であるとともに、教会にとっても最高の祝福の時でもあります。それは、先にバプテスマの恵みにあずかった私たち教会員も、ともに主の祝福にあずかることができるからです。

 

 今週の礼拝のあと、ある兄弟とお話をしていた時に、その方が興味深いことを話してくださいました。「私はクリスチャンという存在は、一面イエス様の十字架の死に涙できる人だと思うんです」と。私は何気なく話された兄弟のその言葉を聞いて、思わず、心の中で「アーメン(その通りです)」と言わずにはおれませんでした。

 

 今週の金曜日(4月2日)は、イエス様の受難日です。私たちのすべての罪を背負ってイエス様が十字架にかかられた日です。この刑に処せられた人は、どんな人であっても気が狂ってしまうとまで言われた十字架刑という極刑の苦しみの中で、イエス様は、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」(ルカ23:34)と、私たちを愛し赦してくださいました。長い人類の歴史の中で、この言葉を言い得た方は、イエス様おひとりだけです。

 

 以前、ブログ「塩狩峠」の中に書きましたが、私がこの十字架上でのイエス様の言葉に深く心打たれたのは、50年前の伝道集会で、ある年若い牧師が眼に涙をいっぱいに浮かべて、このことを語っておられたのを聞いた時でした。初めてこの言葉を聞いた時、私のからだ中に電流が走ったような、それまでの人生で一度も経験したことがなかった感動を覚え、いつしか私の眼にも涙が溢れていました。そして、この時の体験を通して、イエス様を信じて生涯歩んでいく決心が与えられ、次の年に8名の兄弟姉妹と共に、洗礼の恵みにあずかることができました。

 

 あれから50年、その後も沢山のバプテスマ式に参列させていただいてきました。そのたびに上記の御言葉にありますように、私自身もイエス様と共に葬られ、イエス様と共によみがえらされた神の力を信じる信仰によって、今も生かされていることを知らされています。

 

 次週のイースターに、ひとりの兄弟がバプテスマを受けて、信仰の仲間に加えられることに感謝し、イエス様の十字架の死に涙した感動と復活されたイエス様に対する感謝と喜びを持って、今回も新たな気持ちでイースターを迎えたいと思います。

この動画は、2017年4月16日のイースターの時に、北九州の企救エクレシアで説教したものです。来月4月4日はイースターです。コロナ禍の中にあって、私たちはもうひとたびイエス様の愛とゆるしによって生かされていることを知る時としましょう!!



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