アドナイ・エレ

「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり) 創世記22章14節 この言葉は、アブラハムがその子イサクを神の言に従って、モリヤの山に行きささげようとした時に、み使いが現れてイサクの代わりに一頭の雄羊が備えられていることを告げられ、それを燔祭としてささげた所の名として付けられたものです。 65歳で突然天に召された敬愛してやまない故馬場哲雄兄が、この言葉にメロデーを付けられた賛美が「アドナイ・エレ」という曲です。「主にすべてささげて歩む、主にすべてをゆだねて歩む、そのときすべてが備えられる。アドナイ・エレ、アドナイ・エレ」という賛美です。 わたしは、いつもこの賛美を主にささげ、「アドナイ・エレ」の信仰をもって歩み続けていきたいと祈り願っています。

「心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」 (ヤコブの手紙1:21)

 

 今から500年ほど前に宗教改革が起こり、プロテスタント教会が誕生しました。その推進者であったルターが、次のような有名な言葉を遺しています。それは『我、ここに立つ』という言葉です。宗教改革はリフォームという言葉で表され、それは改革ということを意味します。この言葉の本来の意味は、真新しいことを行うというのではなく「原型に戻る」ということを意味します。

 

 原型に戻るとは、宗教改革の第一の目的であった「聖書中心主義」ということです。当時の宗教指導者達は、政治と深く結びつき、人間の考えや力を優先させて世俗化し、堕落の一途をたどっていました。その現状を憂い、本来の姿に戻ることを提唱し運動を起こしたのが、ルターを始めとした宗教改革者達でした。その運動はヨーロッパ全土に広がり、そして世界中にプロテスタント教会が誕生していきました。

 

 その運動の第一の目的は、前述しましたように、神様の御言に戻ること、「聖書中心主義」ということです。私たちの信仰の歩みは、「聖書に始まり、聖書に終わる」ことではないでしょうか。ルターが語った『我、ここに立つ』の「ここ」とは、神様の御言を指します。

 

しかし私たちは、御言の大切さや素晴らしさは分かっていても、そこに立って生きる決心をすることは、簡単なようで、なかなか難しいのです。それは、いつも自分の心配や思い煩いが先立ち、すぐに不安になってしまうからです。私たちは神様の助け無くしては、御言に立つことは困難な存在です。

 

 私自身、これまでの信仰生活の中で、さまざまな困難に直面したり、人生の岐路と思えることに立たされてきました。そのたびに深い不安の中に置かれ、思い悩み、苦しむことがしばしばでした。しかし、そのような中でいつも感謝してきたことは、「祈り」が与えられていたことでした。

 

神様からの助けを求めて、自分の思い悩みや苦しみを、そのままイエス様の前に吐露して祈った時、不思議と適切な御言が与えられ解決へと導かれてきました。このように、祈りによって御言が示され、また御言によって祈りが導かれていくという体験を通して、祈りと御言の大切さを学ばされてきました。

 

 ルターが語った『我、ここに立つ』というプロテスタント信仰の神髄は、今も生き続けています。神様の助けによって、私たちが御言に立つ決心をした時、その御言は成就するのです。最近も、このことを深く知らされたことがありました。

 

 私は、ひとりの姉妹の救いをずっと祈ってきました。神様が、姉妹の中に、イエス様を信じる思いを起こしてくださっているという確信はありましたが、決して私の方から勧めることはしませんでした。その時、ひとつの御言が与えられました。それは「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ2:13)という御言でした。私はこの御言に立つ決心をして、ひたすら姉妹の救いを祈り続けました。

 

 御言が与えられてから1か月後、姉妹の方から「バプテスマを受けたい」という申し出を受けました。私はその言葉を聞いて、心の底から喜びと感謝が湧いてきました。それは、祈りが聞かれたという喜びと、与えられた御言が成就したという感謝でした。

 

神様のみ心は、私たちが神様の御言に立って生きることにあることを知らされます。神様の助けをいただいて、私たちが御言に立つ決心をした時、神様はその思いを受け取ってくださり、与えられた御言を成就してくださるお方なのです。

 

「心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」という聖書の約束が、これからも多くの方々の上に成就していくことを祈り願っています。

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝

しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めて

おられることである」(テサロニケ人への第1の手紙5章16~18節)

 

 私は、昨年の3月まで3年間、ひと月に一度北九州にある伝道所でメッセージと教会形成のご用をさせていただきました。私のあとには、北九州にお住まいの牧師先生ご夫妻に、月に一度おいでいただくことになり、現在もご用をしてくださっています。

 

先月、ご夫妻から、一枚のCDが贈られてきました。奥様は、ゴスペルのシンガーソングライターとして活躍されておられ、全国の教会に招かれてコンサートを開かれています。私達の教会にも5年ほど前においでくださり、コンサートを開いてくださいました。

 

 贈っていただいたCDを聴き終って、心が震えるほどの感動を覚えました。それは、このCDに収められている曲のひとつひとつが出来るまでに、どれほどの苦しみ、葛藤、悩み、そして喜び、感動、感謝があったかを知らされていたからです。そのことについて、このCDに収められています曲の説明の中に、次のように書かれています。「これまでの人生でいちばん辛く、苦しく、悲しい経験をしましたが、それよりも、もっと理不尽で、辛く苦しい十字架にかけられたキリストの姿を思うとき、その命を捨てるまでに私たちを愛し、赦し、生かしてくださった、大きすぎるほどの愛に、何をもって応えることができるのだろうと思い巡らしました。そんな痛みの中からこの曲が生まれました」(『あなたの手のひら』)と。

 

 また、その中のひとつに『毎日が奇跡』という曲があります。

 

日々の営みの中で 起こっている小さな奇跡

当たり前のことのようで 当たり前じゃない

朝日が差し込み目覚めると 生かされている不思議な奇跡

あたたかないのちの鼓動 当たり前じゃない

陽の光にきらめく草木 花はほころび 鳥は歌う

山も海も いのち輝く

 

毎日が奇跡の連続 神様の奇跡の物語

毎日が奇跡の連続 神様の素敵な贈り物

(CD『Life is Beautiful 』)

という歌詞です。

 

 何度も何度もこの曲を聴いていますと、本当に心の底から「アーメン(その通りです)」という思いが湧いてきます。イエス様と出会い、イエス様と日々歩んで行くという新しい人生に変えられると、今まで当たり前のように思えていたことが当たり前ではないことに気づかされてきます。朝起きて感じる心臓の鼓動にいのちの不思議さを覚えたり、周りの景色の移り変わりや鳥のさえずり声に、また手足が自由に動かせることなど。このような日々の営みの中で起こっている小さな奇跡を、今まで見過ごしてきたことに気づかされるのです。

 

 神様がイエス様を通して、私たちに求められていることが、上記の御言葉に記されています。それは、「わたしは、あなたのことを片時も忘れたことはない。あなたが悩み苦しみ、悲しみの中にある時も、わたしは、あなたを守り、支え、助ける。だから、あなたは、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい」と私達に求めておられるのです。神様からのこの言葉は、決して掟や命令ではありません。それは、神様の私たちに対する約束なのです。

 

 このCDを製作された姉妹は、大きな試練を経て、神様からの素敵なプレゼンをその手に抱かれました。今でも先生ご夫妻のご自宅に招かれ、手作りの心のこもった夕食の接待にあずかった時のことが忘れられません。それは、主にある素敵な交わりでした。そのご家庭に、新しいいのちが誕生したことを知らされ、心から喜び感謝しました。

 

 姉妹が作られた曲のひとつひとつを通して「神がなされることは、すべて時にかなって美しい」(伝道の書3:11)という御言葉の深い意味を知らされます。神様は、私たちの悩み、苦しみ、悲しみ、喜びのすべてを知っておられ、時にかなって最高のプレゼント(贈り物)を私たちに与えてくださるお方なのです。

 

イエス様と共にあるならば、私たちの人生は「毎日が奇跡」の歌詞にあるように神様の奇跡の物語に変えられていくのです。何と素晴らしいことでしょう。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ19:10)

 

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)

 

 私達は、7月12日(日)に教会設立64周年の記念礼拝をささげました。今回の記念礼拝をささげた一日は、私達にとって特別な日となりました。礼拝では、ひとりの姉妹のバプテスマ式が執り行われ、夕方には、ひとりの兄弟の告別式がもたれました。同じ日に、バプテスマ式と告別式をもったことは、教会の長い歴史の中でも記憶にないことでした。私はこのことを通して、教会の働きについて、改めて深く考えさせられました。

 

 地域に建てられた教会の使命は、この地から救われる魂が起こされることであり、この地に仕え、奉仕することにあることを知らされます。私達の祈りと願いは、教会が建てられたこの地において、これらのことが成就し、実を結ぶことです。

 

 今回バプテスマを受けられた姉妹は、教会がこの地に建ち続けていなければ、出会うことがなかった方でした。教会の近所にお住まいであったがゆえに、主の不思議な導きによって、教会に導かれバプテスマにあずかられました。またその魂を天に送った兄弟も、ご実家が近隣にあったことにより、ご家族の希望で教会で葬儀を行うことができました。バプテスマ式では、出席者とともに、姉妹の新生の喜びを分かち合い、告別式では、参列者とともに生前の故人を偲び、感謝をもって兄弟を天に送りました。

 

 先のブログに書きましたように、私達の教会の歩みは、決して平坦なものではありませんでした。荒波の中に漂う船のように、大きく揺さぶられ、ある時は波にのみこまれそうになったり、激流に流されそうになったことがありました。しかし、主は不思議な御手をもって、私達の教会を助け、支え、守り、この地に建て続けてくださいました。私達は、教会は誰のものでもなく、キリストのからだであり、かしらはイエス・キリストのみであることを、そのつど深く知らされてきました。

 

 また多くの試練を経ていく中で、信仰者として大切なことを身に着けさせていただきました。それは、キリストのからだなる教会を心から愛し、イエス様に仕え奉仕する喜びでした。今回のバプテスマ式や葬儀の際、教会員のひとりひとりが、誰から指示されてでもなく、自発的に黙々と奉仕されている姿を見て、深い感動を覚えました。このような働きは、一朝一夕にできることではありません。多くの試練を経て、私達に与えられた主からの賜物であることを知らされます。

 

 教会の働きとは何かということを改めて考えてみる時、イエス様が弟子達に語られた次の言葉の中に、その答えが隠されているように思えます。弟子達の足を洗われたイエス様が、次のように言われました。「しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互いに足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」 (ヨハネ13:14,15)と。教会の働きとは、ここでイエス様が手本を示されましたように、喜んで隣人に仕えること、そしてその足を洗うことではないでしょうか。

 

今回の設立記念礼拝の一日を通して、知らされたことは、教会の働きとは、実に地道な働きであり、この地に建てられた恵みに感謝し、御言葉によって養われ、地にしっかりと根を張り、良き地とされて、誠実にこの地の人々に仕え、足を洗っていく存在であるということです。65周年に向けての新たな歩みが始まりましたが、このような状況(新型コロナウイルスの影響)の中にあって、教会の働きはより一層、大切なものとなっていくことでしょう。イエス様が弟子達の足を洗って、その手本を示されましたように、私達の教会は、ひとりひとりの魂にイエス様の愛によって寄り添い、その足を洗い仕えていく存在であり続けたいと願っています。

 

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