アドナイ・エレ

「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり) 創世記22章14節 この言葉は、アブラハムがその子イサクを神の言に従って、モリヤの山に行きささげようとした時に、み使いが現れてイサクの代わりに一頭の雄羊が備えられていることを告げられ、それを燔祭としてささげた所の名として付けられたものです。 65歳で突然天に召された敬愛してやまない故馬場哲雄兄が、この言葉にメロデーを付けられた賛美が「アドナイ・エレ」という曲です。「主にすべてささげて歩む、主にすべてをゆだねて歩む、そのときすべてが備えられる。アドナイ・エレ、アドナイ・エレ」という賛美です。 わたしは、いつもこの賛美を主にささげ、「アドナイ・エレ」の信仰をもって歩み続けていきたいと祈り願っています。

「この幻はなお定められたときを待ち、終わりをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない」

(旧約聖書:ハバクク書2章3節)

 

今、コロナ禍の中で多くの人が悩み苦しんでいます。テレビ等のメディアでは感染者の人数ばかりが大きく報道され、その裏でどれだけの人が日々の生活で苦しんでいるのかが、あまり見えてきません。珍しく、そのような人々を取り上げた番組の中で、コロナ禍の中でも商売を続けているある店主の方が、次のように訴えていたのが印象に残りました。

 

「政府の言うことを聞いたら支援金を払うと言いながら、この半年間一銭も払い込まれていない。それでいて税金だけは決まったように請求されてくる。日本人は皆おとなしいから、この矛盾に対して何の文句も言わないが、普通だったら暴動が起こってもおかしくないと思うよ。自分が暴動を起こしたいくらいだよ」とやり場のない憤りを語っていました。

 

この店主の悲痛な訴えは、多くの人たちの声を代弁しているように思えました。ひとつの店が閉店すると、そこに関わって生活している多くの人たちが路頭に迷うことにもなるのです。店を続けることも閉じることも難しい状況に追い込まれているのが現状です。このような厳しい現実を見るたびに、心が重く暗くなってきます。

 

私の知人の中にも、このような状況の中で先が見えず、悩み苦しんでいる方がおられます。その方と身近に接していると、上記の店主の訴えが他人ごとのようには思えなくなります。ヒシヒシとその大変さが伝わってきます。この重苦しい現状の中で、その方にどのような言葉をかけ、接していけばいいのか思い悩む時があります。今の厳しい現実を観て、言葉のかけようもなくなるというのが正直な気持ちです。

 

そんな時、私の中に思い浮かんできたひとつの御言葉がありました。それは、伝道者パウロが自分の持病のことで長年悩み苦しんでいた時に、主がパウロに告げられた言葉です。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリント12:9)と、「あなたが長年持病で苦しんできた時も、わたしは、あなたに対して十分に恵みを与えてきた」と主がパウロに告げておられるのです。

 

私自身あることで10年間、悩み苦しんだことがありました。先が見えず、いつになったら解決の道が開かれるか分からない日々が続きました。そのような時に与えられたのが、上記のハバクク書の御言葉でした。今まで読んだことがあった聖書の箇所でしたが、改めて知人からいただいた栞に書かれていた御言葉と出会って、暗闇に照らされた一筋の光のようにこの御言葉が私の心の奥深くに留まりました。

 

それから毎日、その御言葉を何回も、心の中で反芻する日々が始まりました。

不思議なことに、その時を境に解決の道への扉が開かれたかのように、人間の考えや知恵を超えて神様のみ業としか思えないような出会いや出来事が次々と起こり、次第に解決へと導かれていきました。

 

 この体験を通して深く知らされたことは、神様は必ず約束を果たしてくださるということでした。「もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない」と記された上記の御言葉の通りに、神様は約束を成就してくださるお方であることを確信させられました。

 

コロナ禍の中での苦しい状況は、まだまだ続くことでしょう。しかし「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と主が言われましたように、これまで数々の困難や苦難に対して、主が解決の道を開いてきてくださった恵みを思い起こして、100年に一度と言われるような未曾有の事態にあっても、神様の約束を信じて、神様と共に一歩一歩誠実に歩んで行けるよう祈り願っています。

「サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。・・そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、・・するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった」         (使徒行伝9章8~9節、17~18節)

 

一ケ月に亘って行われたオリンピック、パラリンピックが9月5日(日)に閉幕しました。オリンピックでの感動は、先のブログで何回かに分けて書きましたが、パラリンピックにおいても多くの感動と感銘を受けました。

 

パラリンピックの父と言われるイギリスのグッドマン博士は、パラリンピックの精神について「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」という有名な言葉を遺しています。この言葉の通りに、各選手が各種目において残された体の機能を最大限に生かして戦っている姿に深い感銘を受けました。

 

グッドマン博士の言葉は、素晴らしい言葉だと思いますが、これを実際に実践するとなると並大抵のことではないように思います。先天的であろうと後天的であろうと、まずそのような体になったことを、自分自身が受け入れなければなりません。誰しもが周りを見て「なんで自分だけが」という思いになるのではないでしょうか。体の不自由さを一生背負って生きていくことを受け入れるまでには、きっと想像を絶する程の長い時間と戦いがあったことでしょう。

 

そのことを思うと、選手たちがそれらの苦闘を乗り越えて、パラリンピックの舞台に立っている姿を観ただけで感動します。そこには、グッドマン博士の言葉通り、残されたものを最大限に生かして戦う選手たちの姿があるからです。どの種目、どの選手を観ていても、想像を絶する苦難や絶望を乗り越えて、懸命に戦っている姿に深く心を打たれ、何度も涙を流しました。

 

彼らのそのような姿に、ひとたび自分自身を照らしてみた時、何と不平、不満が多く、また傲慢な者であるかを知らされます。少しでも自分の思い通りにならないとすぐに不平、不満を漏らしてしまう自分、逆に自分の思ったように物事が進んだ時には、すぐに自分を誇ってしまう自分の姿を見出します。

 

このような者に対して、イエス様は次のように言われました。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。・・わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12・13)と。イエス様の前に自分の姿を映し出してみた時、まず私自身がイエス様によって癒していただかなければならない存在であることを知らされます。

 

上記の御言葉に登場するサウロ(後のパウロ)という人物も、自分のことを「律法の義については落ち度のない者である」(ピリピ3:6)と語っていますように、自らを誇りとし落ち度のない者と自認していたひとりでした。そのサウロが、ダマスコに向かう途中で突然、天から光がさしてきて、イエス様からの声を聞いて地に倒され、まったく眼が見えなくなってしまったのです。

 

サウロの動揺はいかばかりであったことでしょう。「三日間、食べることも飲むこともしなかった」と記されていますことからも、その大きさを伺い知ることができます。今まで、すべて自分の力で生きてきたサウロが、他人の手を借りなければ何ひとつとして出来なくなってしまったのです。

 

このことを通して、サウロの中に大きな変化が起こったのではないでしょうか。それは、自分はひとりでは生きられないという謙虚さです。今まで自分ひとりの力で生きてきたと思っていたサウロにとって、これは180度の変化でした。まさに、目からうろこが落ちた瞬間でした。サウロは、ここからイエス様と共に歩くという新しい人生の第一歩を踏み出しました。イエス様が、サウロの人生の伴走者となってくださったのです。

 

パラリンピックのパラとは、ギリシャ語で「並んで立つ」「対等」という意味を持つということです。パラリンピックを通して、私たちは、このことの意味を深く知らされたのではないでしょうか。パラリンピックに出場したほとんどの選手が、異口同音に多くの人たちの支えと助けがあってここまで来れたこと、そして今の自分があることの感謝を語っていました。

 

私たちにとって、人生の伴走者を得ることはどんなに心強く幸せなことでしょうか。インマヌエル(「神われらと共にいます」の意味)なるイエス様が、その役を担ってくださることを約束されています。永遠に変わることのないイエス様に、私たちの人生の良き伴走者となっていただき、走るべき行程を力強く走り抜いていきましょう。

北九州の企救エクレシアで「神様の時」と題して、メッセージした時のものです。私たちがどんな状況の中に置かれていたとしても、必ず神様の時が備えられていることを信じて歩んでいきましょう。

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