「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」
(エペソ人への手紙2章14~16節)*前回と同じ聖書の箇所にしました。
スポーツマンシップの真髄は、試合の後にお互いの健闘をたたえ合う、「ノーサイドの精神」にあると言われています。敵味方に分かれてどんなに激しくぶつかり合い戦っても、試合終了のホイスッルが鳴れば、敵も味方もなくなり、お互いをリスペクトし合う精神です。
この精神は、上記の御言葉に記されていますようにイエス・キリストの精神でもあると思います。パウロはこのことを上記の聖書の箇所で、次のように記しています。「キリストは、わたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除かれた」(2:14)と。
旧約聖書の創世記から始まる人間の歴史は、まさにこの敵意の歴史でもありました。人間の始祖であるアダムとエバは、その罪の責任を他者(エバは蛇に、アダムはエバに)に負わせて責任転嫁して自己正当化し神に背きました。次にふたりの初めての子であるカインは弟のアベルに嫉妬して敵意を抱き、アベルを殺害してしまいました。
父なる神は、このような神と人、また人間同士の関係の修復のために、アブラハムを父祖とするイスラエル民族を選ばれ、その回復を計られました。しかし彼らはそのような神の意図からはずれ、選民意識だけが強くなり、自ら優越感・特権意識をもつようになり、他者(異邦人)を裁く結果になってしまいました。
このような人間の罪の歴史(敵意の歴史)に終止符を打つために、父なる神は、そのひとり子であるイエス・キリストをこの地に送られました。パウロは前述の聖書の箇所に続けて、そのことを次のように記しています。
「イエス・キリストは、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神に和解させ、敵意を十字架につけて滅ぼしてしまったのである」(2:14~16)と。
パウロはここでふたつのものをひとつにするのは、十字架によってのみ可能であり、試合終了のホイッスルが鳴ってひとつになるように、本当の和解と平和は、イエス・キリストの十字架によってもたらされるということを私たちに教え示しました。
今、世界はロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナのような戦争や紛争などによって敵意に満ちた世界となっています。お互いが自己正当化し、自己主張、自己正義が蔓延した世界となっています。このような世界は、どこまで行っても平行線のままで解決の道を見出すことができません。隔たりだけが大きくなるばかりです。
このような中にあって、父なる神は、敵意という隔ての中垣を取り除くために、もうひとたびパウロの言葉を通して、私たちに十字架を見上げることを教え示そうとされているのではないでしょうか。イエス様が十字架上での極限の苦しみの中で、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と、私たちを愛し赦してくださった言葉に、全人類が耳を傾けることを願っておられるのではないでしょうか。
イエス様の十字架を見上げる時、私自身の罪の深さを知らされます。誰ひとりとして堂々と胸を張って自己正当化、自己正義化などできなくなってしまうのではないでしょうか。パウロが告白したように、他の誰でもなく、この私こそがまさに「罪人のかしら」なのです。
私たちが何の罪もない神のひとり子を一方的に十字架にかけて殺した(神に敵対した)にもかかわらず、その罪を私たちに負わせるのではなく(裁くのではなく)、すべての罪をひとり子であるイエス・キリストに負わせ、その一切の罪を一方的に赦してくださいました。十字架こそがすべての敵意を取り除く唯一まことの和解と平和の道なのです。
今週からレント(受難節)に入りました。イエス様の復活(イースター)を迎えるにあたり、静まってイエス様の十字架の意味をもうひとたび深く心にとどめましょう。そして、2024年のイースターを私たちひとりひとりが新しく生まれ変わる時としましょう。イエス・キリストとともにあるなら、どんな人であっても新しく生まれ変わることができるのです。なぜなら、私自身がそのひとりだからです。