アドナイ・エレ

「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり) 創世記22章14節 この言葉は、アブラハムがその子イサクを神の言に従って、モリヤの山に行きささげようとした時に、み使いが現れてイサクの代わりに一頭の雄羊が備えられていることを告げられ、それを燔祭としてささげた所の名として付けられたものです。 65歳で突然天に召された敬愛してやまない故馬場哲雄兄が、この言葉にメロデーを付けられた賛美が「アドナイ・エレ」という曲です。「主にすべてささげて歩む、主にすべてをゆだねて歩む、そのときすべてが備えられる。アドナイ・エレ、アドナイ・エレ」という賛美です。 わたしは、いつもこの賛美を主にささげ、「アドナイ・エレ」の信仰をもって歩み続けていきたいと祈り願っています。

 「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その計り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」 (コリント人への第二の手紙4章7節)

  土の器 欠けだらけのわたし

その欠けからあなたの 光がこぼれ 輝く

土の器 ヒビだらけのわたし

そのヒビからあなたの 愛が溢れ 流れる

こんなわたしでさえも

主はそのままで愛してくださる

だから今 主の愛に

応えたい わたしの全てで

用いてください主よ

わたしにしか できないことが 必ずあるから

 (作詞・作曲)田中瑠美子

 上記の詩は、今月の初め北九州にある企救エクレシアという教会の設立記念礼拝で私が説教のご用をした時に、礼拝の中で賛美された「土の器」という曲の歌詞です。初めてこの曲を聴いて、何て素晴らしい歌詞なのだろうと思いました。

 その日の説教は、「教会の本質と使命」と題して、ルカによる福音書の中の「善きサマリヤ人のたとえ」から御言葉をとりつがせていただきましたが、説教の内容とこの歌詞がぴったりで、聖霊の導きの不思議さに驚きを覚えました。

 伝道者パウロがイエス様と出会って自分自身のことを、「わたしは罪人のかしらである」(テモテへの第一の手紙1章15節)と言っていますように、私たちは土くれで創られた欠けだらけでヒビだらけの器であることを知らされます。

 しかし、そのような欠点だらけの器であっても、そこにイエス様の光が注がれる時、その器は光(イエス様の愛)に満ち溢れ、欠けてヒビ割れた部分からその愛が溢れ流れだし、他者に流れていくのです。

 何と素晴らしいことでしょう。私たちは欠けだらけヒビだらけの器であったとしても、イエス様という宝がその器の中に住んでくださる時、私たちの思いを遥かに超えて、主が私たちを用いてくださるのです。

 それが自分の眼から見て、どんなに小さい働きだと思えても、それはあなたにしかできない働きだというのです。この土の器を通して、もっともっとイエス様の愛が溢れ流れていくように、日々イエス様とともに歩んでいきたいという思いを新たにされた賛美との出合いでした。

 

題:「教会の本質と使命」  聖書:ルカによる福音書10章25節~37節

本日は企救エクレシア設立21周年記念礼拝を皆さんとともにおささげ出来ますことを心より感謝します。専従の牧師がいない中、信徒の皆さんの手によってよくここまで歩んで来られたと感慨深い思いでいっぱいです。これも皆さんの主イエス・キリストを愛される信仰と祈りの積み重ねの賜物だと思います。

私自身、今年で信仰生活53年になります。この53年間、東京にあります深沢教会で教会生活を送ってきて知らされていますことを、本日「教会の本質と使命」と題して、与えられた御言葉から語らせていただきたいと思います。

ルカによる福音書10章25節からの御言葉は「善きサマリヤ人のたとえ」として有名な箇所です。ここに4人の人物が登場します。1人目は盗賊に襲われてひん死の状態で倒れているユダヤ人の旅人、2人目はそこを通りかかった祭司、3人目はレビ人、そして4人目にサマリヤ人が登場します。祭司とレビ人は同じユダヤの同胞であるにもかかわらず、安易に関わって責任を取らされることを恐れて観て見ぬふりをして何もせずにそこから立ち去って行きました。

しかし4人目に登場したサマリヤ人は、ひん死の状態にあった旅人に積極的に近づいて行って、その傷あとに惜しげもなく高価なオリーブ油とぶどう酒を注ぎ、包帯までしてやって手厚く介抱しました。そして自分が泊まっている宿屋に連れて行き、一晩看病し翌日も十分過ぎるほどの治療費を宿屋の主人に託して旅立って行きました。

前述の2人と比べて何と対照的な態度でしょうか。ひん死の状態とはいえ見ず知らずの人のために、ここまで面倒を見る人など、どこを探しても見当たらないのではないでしょうか。さらに驚かされますのは、当時、サマリヤ人とユダヤ人は長年の敵対関係にあったということです。このサマリヤ人は、単にひとりの旅人を助けるどころか長年の敵をも愛してその面倒を見たのでした。

私を信仰に導いてくださり、企救エクレシアの礎を築いてくださった故馬場哲雄兄が聖書を読むにあたり、私にひとつのアドバイスをしてくださいました。それは、「聖書のどの書であっても、その1章1章の中に人間の罪の姿とイエス様の救いのみ業が書かれているので、それを読み取っていきなさい」ということでした。

まさに、本日の聖書の箇所からもそのことを読み取ることが出来るのではないでしょうか。祭司とレビ人が取った行動の中に私たちの罪の姿を見出だし、サマリヤ人の姿の中にイエス・キリストの救いのみ業を見ることが出来るのではないでしょうか。そして、このことの中に「教会の本質と使命」があることを知らされるのです。

教会は決して立派な人達の集まりではなく、祭司やレビ人に代表されるような罪人の集まりであり、イエス様の十字架によってだけ罪が赦され、救いへ導かれるところではないでしょうか。ここに教会の本質があると思います。そして罪赦された私たちが、人種、民族、国家、宗教を超えて善きサマリヤ人となって、教会から遣わされて出かけて行くところに教会の使命があると思います。私たちは罪人のかしらのような存在であっても、イエス様の十字架によって罪が贖われ、新しくされて教会から遣わされて良き働きへと導かれていくのです。

今日から22周年を迎えられる企救エクレシアの歩みも、この「教会の本質と使命」にしっかりと立って、イエス様とともに雄々しく力強く歩まれますよう心から祈り願っています。

11月5日(日)北九州にある企救エクレシアの設立記念礼拝で説教した時の動画です。
多くの方にご覧いただければ幸いです。

題:「教会の本質と使命」 

聖書:ルカによる福音書10章25節~37節

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