アドナイ・エレ

「アドナイ・エレ」(主の山に備えあり) 創世記22章14節 この言葉は、アブラハムがその子イサクを神の言に従って、モリヤの山に行きささげようとした時に、み使いが現れてイサクの代わりに一頭の雄羊が備えられていることを告げられ、それを燔祭としてささげた所の名として付けられたものです。 65歳で突然天に召された敬愛してやまない故馬場哲雄兄が、この言葉にメロデーを付けられた賛美が「アドナイ・エレ」という曲です。「主にすべてささげて歩む、主にすべてをゆだねて歩む、そのときすべてが備えられる。アドナイ・エレ、アドナイ・エレ」という賛美です。 わたしは、いつもこの賛美を主にささげ、「アドナイ・エレ」の信仰をもって歩み続けていきたいと祈り願っています。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来てくださった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」        (テモテへの第1の手紙1章15節)

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と」                                                                               (ルカによる福音書18章13節)

 

最近、コロナの感染者は大分減ってきましたが、死亡者の数は増加の傾向にあります。今から一年前、実の弟のように接してきたひとりの兄弟が、コロナに感染して入院し、わずか10日余りで天に召されました。「アッ」という間の出来事で、喪失感で心にポッカリと穴が空いたような状態が続きました。

 

兄弟は55歳という若さで天に召されました。8年前に洗礼を受け、イエス様から多くの恵みをいただいて歩んできましたが、イエス様と出会うまでの兄弟の人生は、患難辛苦を味わい、まさに波乱万丈の人生でした。そのような兄弟の口ぐせは「罪人のかしらのようなわたしがイエス様によって救われ、こうしてクリスチャンになることができたこと自体、奇跡以外の何ものでもありません」ということでした。

 

上記のルカによる福音書の18章9節から14節には、ふたりの人物のことが書かれています。ひとりはパリサイ人です。パウロも自らのことを「律法の上では、パリサイ人」(ピリピ3:5)と言っていますように、当時の指導者層の中でもエリート中のエリートと言える存在でした。

 

もうひとりは取税人です。同じルカによる福音書の19章に取税人のかしらであるザアカイのことが書かれていますが、イエス様がザアカイの家に泊まられることになった時、「彼は罪人の家にはいって客となった」(ルカ19:7)とまで言われるほど周りの人々から嫌われていた存在でした。

 

同じ神殿で祈ったこのふたりの祈りは、まことに対照的でした。パリサイ人は神殿の中央に立って、堂々と胸を張って自分が行ってきたことを、ひとつひとつ並び立てて誇らしげに祈りました。一方、取税人は、神殿の隅っこに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながらただひとことだけ、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」(18:13)と祈りました。

 

この対照的なふたりの姿を見て、イエス様は次のように言われました。「言っておくが、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(18:14)と。

 

イエス様は、ご自分がこの世に来られた目的を「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と言われました。またヤコブの手紙4章6節には「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」と記されています。イエス様は罪人を招くためにこの世においでになり、神様は高ぶる者をしりぞけられ、へりくだる者に恵みをお与えになると言われています。

 

パリサイ人として、自らの行いを誇り、自らを義人と称してきたパウロは、イエス様と出会って大きく変えられ、自分のことを「罪人のかしら」(Ⅰテモテ1:15)だと言い、「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)と告白するに至りました。

 

パウロをここまで変えた力は、何処にあったのでしょうか?パウロはそのことを次のように言っています「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いあずかるわたしたちには、神の力である」(Ⅰコリント1:18)と。

 

どんな人であっても、イエス様の十字架の前に立つ時、あの取税人のように、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と祈るしかないのではないでしょうか。自分のことをおごり高ぶるのではなく、神様の前にいつもへりくだって、「わたしこそ罪人のかしらです」と日々告白して、謙遜に歩んで行きたいと祈り願っています。

「彼らは互に言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか』」

(ルカによる福音書24章32節)

 

今年も主イエス様が復活された「イースター」の時を迎えます。この言葉は日本人にはあまり馴染みがありませんが、世界の多くの国々ではクリスマスに次いで盛大にお祝いされる行事です。

 

今、私たちが置かれています状況は、長期にわたるコロナ禍の問題、ロシアとウクライナの戦争の問題など決して平安な日常とは言えません。先が見えない暗闇の中に置かれているようです。

 

イエス様が復活された時も、このような状況に置かれていた人たちがいました。上記の御言葉に記されています「彼ら」とはイエス様の2人の弟子を指しています。彼らはイエス様の弟子として行動をともにすることによって、イエス様が語られる素晴らしい教えや死人をも生き返らせるという奇跡を眼のあたりにしてきました。その方が2人の極悪人とともに十字架にかけられて死んでしまわれたのです。

 

彼らの落胆ぶりはいかばかりだったことでしょう。自分たちの人生をかけて信じ従ってきたお方が眼の前から消えてしまったのです。先が見えない暗闇の中に突き落とされたような思いになったことでしょう。2人はイエス様との行動の場であったエルサレムにいる意味を失い、自分たちの故郷であるエマオという村に向かって、夕闇迫る暗い小道を2人でトボトボと歩き出しました。

 

するとその時、復活されたイエス様が2人に近づいてこられ、一緒に歩き出されたのです。イエス様の愛は、私たちの思いを知ってイエス様の方から近づいてきてくださるということです。彼らの思いを知られたイエス様は、聖書全体からひとつひとつ丁寧に十字架と復活について解き明かされていきました。

 

しかし絶望の中にいた2人の心は固く閉ざされていて聞く耳を持っておらず、その方がイエス様だとは分かりませんでした。それでもイエス様は彼らと行動をともにされ、招きに応じて家に入って食事をともにされました。2人はイエス様と食事をともにすることによって、やっとその方が復活されたイエス様であることが分かりました。

 

彼らはその時、その方がかつて行動をともにしていたイエス様であることがはっきりと分かったのです。その途端にイエス様の姿は見えなくなりましたが、彼らは互に「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」と語り合いました。

 

 復活されたイエス様と出会った彼らには、もうかつてのような絶望的な姿はありませんでした。心が燃えるような感動を味わったのです。それは彼らの人生の中で一度も体験したことがなかったような感動でした。そのことが上記の御言葉に表われています。

 

キリスト者にとっての一番の喜びは何でしょうか。それは、どんなに辛く苦しいことがあっても、イエス様が今も私とともに生きてくださっているということではないでしょうか。このことを体験した2人は、すぐにエマオを発って再びイエス様との行動の場であったエルサレムに向かいました。

 

復活されたイエス様が彼らとともに歩いてくださらなかったとしたら、その人生は暗闇のままだったでしょう。私たちの人生もイエス様が復活してくださらなかったら、永遠の死という恐怖の中に閉じ込められ、絶望の人生を歩むことになったでしょう。しかし、イエス様が「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と力強く宣言してくださり、そのお言葉通り十字架にかかって死んで、3日目によみがえってくださいました。

 

 イースターは単なる行事ではなく、復活されたイエス様とともに歩き出す時です。どんなに困難な状況の中にあっても、イエス様は私たちとともに生きてくださり、私たちを助け励まし救ってくださるお方なのです。      

「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」

(コリント人への第2の手紙4章16節)

 

 昨年に続きコロナ禍の中での新しい年が始まりました。様々な場面での苦しい状況は変わりません。いつまでこのような状態が続くのだろうかと不安な気持ちで生活されている方も多いと思います。私の身近な知人の中にも正月休みもなく、3日から就職のための面接を受けられました。コロナがなければとっくに定職に就かれていたことでしょう。それほど世の中の状況は厳しいのです。

 

 朝の祈りの際に用いている本(榎本保郎著:「旧約聖書一日一章」)の中に、次のようなことが書かれていました。「私たちイエス・キリストの十字架の救いにあずかる者として、そのイエス・キリストの十字架が『わがためなり』となっていくためには、日々悔い改めて神の前に新たな存在となることが大事であるということなのである」と。

 

 この文章を読んで深く問われたことは、私自身が神の前に日々新たな存在となっているかということでした。2年前にこのようなコロナ禍の状況になることを誰も予想しなかったと思います。私たちの日常は、私たちの計画や思いを遥かに超えて日々刻々と移り変わっています。

 

 前述しました知人の方は、2年間コロナ禍の中にすっぽりとはまってしまわれ、いまだに苦しい状態が続いています。その方とはこの2年間、ほぼ毎週欠かすことなくお会いして、この状態からの解決のためにお話をし、ともに御言葉をいただき祈り続けています。

 

 このことを通して問われていますのは、私自身の信仰のあり方です。一喜一憂する状況が続く中、そのことに大きく揺り動かされている自分の姿を見出します。そのたびに信仰者として、あなたは何を信じて歩んできたのか。あなたの50年に及ぶ信仰のあり方はどうなのかと問われます。これまでの信仰生活の中で、いろいろな問題と直面してきました。確かに主はその都度万事を益に変えてくださいました。

 

 このことを深く知らされていながらも信仰者としての私の実体は、上記に記しましたように、その時々の状況に一喜一憂するような弱くてもろい存在です。時として、そのような自分の姿に嘆くことさえあります。しかしながら、このようなどうしようもない不信仰な者だからこそ、イエス・キリストの十字架の救いにあずからなければならない存在であることもまた知らされるのです。

 

 イエス・キリストの十字架が「わがためなり」となっていくためには、神の前に日々私自身の不信仰を悔い改め、新たな存在となっていかねばならないことを覚えさせられます。眼に見える日々の状況は刻々と変わっていきます。明日のことを確実に予測できる人など誰ひとりとしていないと思います。

 

 私たちがなすべきことは、自分が今どこに立って歩んでいるかという足元をしっかりと見据え、明日への道を備え開いてくださっていますイエス様に希望を置いて、この100年に一度と言われる困難な状況を乗り越えて行くことしかないのではないかということを年の初めに改めて深く知らされました。

 

「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」                                            (コリントへの第2の手紙4:16・17)

 

上記の御言葉は、この困難な時代を生きる私たちを勇気づけ、希望と恵みに満ちた歩みへと導いてくださる力だと信じています。

 

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